上島竜兵さんを偲ぶ 村野工業時代の「恩師」が語る後悔、旧友が思い出す“将棋とRX7”

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東京に行って俳優になる

 上島さんは高校時代、周囲を笑わせるような存在では全くなかったという。

「そういう生徒は別にいたんです。上島はそんなことは全然せず、賑やかだったり目立つようなことはなかった。スポーツが苦手なせいか、クラブ活動もせず帰宅組でしたよ」と柏木さん。級友によると、運動神経はいまひとつで、体育の授業で勢い余って跳び箱に突っ込み、バラバラに崩れて大笑いになったという。

「わざとやったのではなく、跳べなかったんです」(同)

 社会科担当の柏木さんは当時、世界史や政治経済など社会一般を教えていた。

「彼は理数系こそ苦手でしたが社会系は得意で、全体の成績も中の上のほうだったと思います。当時学校では『進級留め置き』といって一定の成績に達しない子は留年になるのですが、上島をはじめ私のクラスは成績がよく、幸いそういう生徒はいませんでした。ちょうど学校も、進学に力を入れ出した頃でした」(同)

 卒業の時、上島さんの母親とともに「三者面談」を開いて進路を決めた。「芸能の道に進みたい」ということだった。

「お母さんも後押ししておられて、東京の俳優養成学校のようなところに入りました」(同)

志村さんを亡くして寂しかったのでは

 最初の10年くらいは鳴かず飛ばず。東京で就職した仲のいい級友を頼って、よく下宿に転がり込んだりしていたと聞いた。心配していたが、何年か経って、ある教え子が「上島、結構売れてますよ」と言い出した。

「あれよと言う間にお茶の間の人気者になり、もうびっくりでしたね」(同)

 1年半前の突然の電話に柏木さんには一抹の不安はあったが、まさかの悲報だった。

「飛沫が飛びまくるような舞台芸も多いので、コロナで制限もあったのでしょうが、今後もNHKのドラマの出演予定などもあり、仕事がなくなって困っているわけではなかったのでは。想像ですが、やはり一昨年の春に志村けんさんがコロナで亡くなったことを彼は引きずっていたのではないかという気がします。上島を一番買っていてくれた人なので、衝撃だったはず。志村さんも彼も酒好きで、よく付き合っていたそうです。志村さんが亡くなった後は、コロナの制限もあって、酒の相手してくれるのがほとんど奥さんだけになったのでは。愚痴なんかの聞き役になってくれていたのでしょうけど」(同)

 近々、柏木さんは当時の級友たちを集めて上島さんを偲ぶ予定だそうだ。「スポーツ系で迫力ある級友たちの中にあって、上島は可愛い顔してますでしょ」と語りながら、恩師は「79」(1979年卒業のこと)と題された卒業アルバムに見入っていた。

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