松本白鸚インタビュー なぜ高熱の日に最高の演技ができたのか

エンタメ

  • ブックマーク

Advertisement

ブロードウェイの「4時」

 こうした心の持ちように至ったのは、「原点」ともいうべき経験が大きかったのかもしれません。それは僕が27歳の時のことです。

「ラ・マンチャの男」日本初演の年の12月には家内の紀子(のりこ)と結婚式を挙げ、翌70年の年明けには慌ただしくふたりでニューヨークに向かいました。ブロードウェイのマーチンベック劇場で開催される「国際ドン・キホーテ・フェスティバル」への参加をお声がけいただき、3月から10週にわたり「ラ・マンチャの男」に主演することになっていたからです。

 全編英語のせりふに歌にダンス、それをどうやり切るか。日本では歌舞伎の名門の家に生まれたなどと注目されても、アメリカでは全く無名の「ソメゴロウ・イチカワ」をどうやったら認めてもらえるか――。精も根も尽き果ててベッドに倒れ込む日々でした。

 夜の8時に開演し、舞台を終えて11時頃に劇場を出る。家内とふたりでチャイナタウンで夕食を済ませて、西55丁目のホテルに戻り泥のように眠る。目覚めると「4時」で、辺りは薄暗い。疲れすぎているせいであまり寝られなかったのだろう、まだ明け方の4時かと思ったら実は夕方の4時で、またすぐに劇場へ向かう。そんな毎日でした。それでも休むわけにはいきません。なにしろ、僕の後ろには20人ものアンダースタディー(代役)が控えていたのですから。

高熱で最高の演技ができた理由

 そんな日々を繰り返し、ついに高熱を出してしまい、その日はもうここで失神しても構わないという覚悟で舞台に立ちました。当然、自分としては最悪の出来です。舞台を終え、フラフラになって楽屋に戻ると家内に確認しました。

「出来栄(できば)え、悪かっただろ。最低の出来だったよな?」

 すると、意外なことに彼女はこう答えたんです。

「いや、今日は最高だった」

 その時、僕は気付きました。役者は「欲」を持つべきではないのだと。

 それまでの僕は、英語のせりふを完璧に喋ってやろう、ソメゴロウ・イチカワが上手に演じる姿を見せてやろう、お客様から盛大な拍手をいただきたいと、欲を持って舞台に臨んでいました。

 しかし、意識がもうろうとするなか、倒れるか倒れないかの瀬戸際で演じたその日の芝居こそが最高の出来だった。とどのつまり、踊りや歌を巧みに、などということより、もっと深い魂の部分でセルバンテスに触れることが大切だったんです。

次ページ:「ぶる」のではなく「らしく」

前へ 1 2 3 4 次へ

[2/4ページ]

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。