「沖縄署騒動」はなぜ起きたのか…「高校生失明事件」の捜査が長引く「2つの特殊事情」

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「第二のコザ騒動だ!」。沖縄の戦後史を知る多くの人が“事件”の一報を聞き、こう口を揃えた。今年1月27日の深夜から28日の未明にかけ、沖縄市の沖縄警察署前で発生した騒動のことである。同署前に集まった数百人の若者が投石や落書きなどの狼藉を働き、機動隊が出動する事態になった。なぜ“暴動”は起きたのか。発端となった「高校生失明事件」の捜査の行方は……。地元住民や捜査関係者の話をもとに一連の騒動を振り返る。

SNSで引火

 治安のいい日本において、警察署が市民に襲撃されるなど滅多にないことである。同日午後の会見で松野博一官房長官は、この騒動について記者から質問を受け、暴徒数は「最大時400人」と発表した。

 地元メディアの記者が振り返る。

「27日未明、沖縄市内で発生した17歳の男子高校生の負傷事案が騒動の発端でした。警ら中だった警察官と接触し、高校生は右眼球破裂の重傷を負いました。高校生と警察官、双方の主張が食い違っていた点や、その後の警察の対応に高校生の親族や仲間が反発。警察への抗議を呼びかける投稿がSNSで拡散し、当日夜の集団抗議へとつながっていったのです」

 沖縄署が立地するのは、国道330号沿いのライカム交差点のほど近く。2012年に嘉手納基地近くの胡屋十字路から移転した。建て替えられてから10年足らずの新庁舎は、「多くが10代だった」(前出の記者)という若者から卵や石、花火などで“攻撃”を受け、見るも無惨な姿になった。

「騒ぎがあった翌日の夜にもSNSで集会の呼びかけがあり、県警は警戒を強めていましたが、2度目の騒ぎは起きませんでした。県警は面子を傷つけられた格好で、暴徒の摘発に向け当時の記録映像などの解析を進めているようです」(同・記者)

50年前の記憶

 庁舎から道路を挟んだ向こう側には、米軍統治時代の1954年から営業を続けるショッピングセンター「プラザハウス」があり、騒動の当夜、付近は集まった若者たちの異様な熱気に包まれた。現地住民たちの脳裏に蘇ったのは、50年前の記憶である。

 1970年12月に起きた「コザ騒動」だ。警察と米軍、怒りをぶつけた相手は違うが、騒動が起きた「場所」によって人々の記憶が喚起された側面があることは否定できない。

「沖縄の日本復帰前に起きた騒動は、米兵が運転する車が地元住民をはね飛ばした事故が直接の発端でした。MP(ミリタリーポリス)による事故処理に群集から不満の声が上がり、一部が暴徒化。群集は米軍の車両を横転させ火を放つなどして、80台以上が損害を受けました。騒動の前には、沖縄南部の糸満市で女性をひき殺す交通事故を起こした米兵が軍法会議で無罪判決を受け、地元住民の怒りを買っていた。日頃の米軍に対する鬱憤が根底にあったのは間違いありません」(同・記者)

 コザ騒動では、数々の偶然が騒動を拡大させた側面もあったという。

「忘年会シーズンで、事故現場に近い繁華街には大勢の酔客が集まっていた。前夜には在沖米軍基地での毒ガス備蓄に抗議する集会が行われていた。市民や活動家、そこに嘉手納基地近くで営業するAサインバーにいた『玄関ボーイ』と呼ばれる用心棒役の男たちも加わり、騒ぎが大きくなっていった」(同・記者)

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