「朝鮮人引き揚げ」で巨大な利権を得た「在日本朝鮮人連盟」 鉄道乗車券も悪用

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1日千人の朝鮮人輸送計画

 政府は、仙崎と博多で1日千人の朝鮮人輸送計画を立てていた。朝鮮半島では、米軍が9月9日に京城(現ソウル)に入り、朝鮮総督府の行政権を接収して軍政を敷いた。そして9月23日から朝鮮内日本人の引き揚げと在日朝鮮人の受け入れ業務を行うことになった。

 この時、日本政府が業務委託したのが、日朝融和団体である中央興生会と東亜交通公社、県の統制会などである(坪井豊吉『在日朝鮮人運動の概況』)。

 政府は輸送計画の立案から現場の指揮権までを、権藤嘉郎(権逸)や中央興生会の手に委ねた。

 政府の計画輸送が発表された9月1日、早くも中央興生会は各府県の興生会支部に通達を出し、業務に着手した。9月28日に厚生省が出した「終戦に伴う内地在住朝鮮人及台湾人の処遇に関する応急措置の件」(厚生省発健第152号)によると、朝鮮人帰還に伴う移動や援護は興生会が行い、興生会の発行する「計画輸送証明書」を携行した朝鮮人が優先的に帰還できることになっていた。

混乱する引き揚げ地

 だが、現場は混乱を極めた。朝鮮人は「計画輸送証明書」による優先順位を無視し、われ先に、と引き揚げ港に殺到したからである。

 9月14日の「読売報知」には、下関に3万人を超える朝鮮人が押し寄せた様子が記されている。

「足もとから鳥がたつやうに帰鮮を急ぐ者が多くそれが全国から雪崩を打つて渡鮮基地下関に蝟集しはじめすでに三万人を突破しようとしてゐる、関釜連絡船は航行停止中と知りながら下関まで押しかけてくる帰鮮者はなほ日とともに激増し、さきほど来漸く関釜連絡船二隻の隔日就航をみたが、この程度の船腹では到底激増する帰鮮者を消化しきれるはずがなく、このため朝鮮人の数は一日一日膨張の一途をたどつてゐる」

 下関は釜山へ向かう関釜連絡船の乗船港だったが、関門海峡に機雷や沈没船があったため、日本海側の仙崎港が引き揚げ乗船港となっていた。多くの朝鮮人たちは一度下関に集まり、それから仙崎に向かった。

 下関は空襲で町の6割を焼失した。政府は、現地の興生会館を計画輸送の収容先として用意したが、津波のように押し寄せてくる帰還者に対応しきれなかった。

「下関滞留朝鮮人ニ関スル情報」(鈴木久美「在日朝鮮人の帰還援護事業の推移―下関・仙崎の事例から」『在日朝鮮人史研究』緑蔭書房)によれば、帰還者は下関桟橋駅待合室(約5千人)、駅待合室(約300人)、下関興生会館(約600人)、在日本朝鮮人連盟倉庫内(約400人)、波止場付近上場(約300人)、疎開し空家となっている建物(約400人)、知人宅(約3千人)、桟橋駅待合室下のガード下にホームレスのようにごろ寝(約8千人)で、分散して船待ちをしていたという。

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