ヤクザの辞め方は2パターンある カタギになった、それぞれの辛すぎる人生とは?

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暴追センターは「捕虜の尋問」

 辞める理由を細かく話すことは、組の内部事情を細かくバラすことと同じであり、ハッキリ言って、言い難い話のオンパレードなので、やり難くてしょうがなかったそうである。Aさんは、昔、戦争映画で観た「捕虜が何でもしゃべらされる屈辱的なシーン」を思い出して嫌になったそうである。

 次に、離脱後に最も重要になる「仕事の紹介」については、Aさんが考えていたよりもはるかに限定的で、それは各都道府県によって多少の差はあるが、暴追センターがそれぞれ案内できる再就職先企業は、大体20社前後が平均的だった。

 業種で言えば、その範囲はもっと狭まる。暴力団を取り締まる規制は充実しているが、暴力団からの離脱サポートはまだ不充分だという印象になってしまうのが今の日本社会の現実なのである。

 結局、Aさんは暴追センターに頼らずに、更生を目指して、音信不通の手口を用いて所属していた暴力団から飛んだ。

 Aさんは、離脱を意識した時点から貯め込んだ資金で、暴力団員時代に知り得た職業知識を活かして、新たに移住した見知らぬ町で飲食店を開業した。

村八分の辛さ

 その町の人々からすれば、自分たちと縁もゆかりもない人間が開いた新店に客として入るほどの好奇心もなく、むしろ正体不明の薄気味悪い新店として近寄ることもなく、「店主は元暴力団員なんじゃないか? 関わらないほうがいい」という態度だった。

 今の日本社会で人生の再起を図ることは、いろいろな意味で決して簡単ではない。そもそもAさんは、暴力団員時代に犯罪行為を重ねて資金を貯めたタイプだが、その道もまた決して簡単ではなかった。

 物事の善悪はともかく、この資金は間違いなく命がけで作った資金だった。そして、暴力団から離脱する際も、決して楽ではなかった。言ってみれば、命がけで離脱したような状況だった。そして、やっとの思いで自分の店を出店した。これもまた言ってみれば、命がけで出店したようなものだった。

 ここまでの長い期間、Aさんは気持ちが休まる日がなかっただろう。そしてAさんのことを待ち受けていたのは、日本の地方社会に根強く残る村八分的な差別だった。

 Aさんのことを正体不明な怪しい人物と見なして警戒する町の人々の気持ちも分からなくもないが、Aさんにとってカタギとしての再出発が村八分のマトというのは、かなり心苦しい状況だっただろう。

 そしてAさんは、半年もしないうちに店を閉業するほかなかった。出店に積極的で暴力団員時代から連れ添ってくれた妻とは、この時点で離婚することになった。

 この一連の出来事によって精神のバランスを崩したAさんは、鬱病を患ってしまい、その翌年に自殺した。

 ある町では、言葉が通じない外国人労働者より元暴力団員のほうが、社会的に嫌われる傾向が強い。そんな状況下に置かれたAさんのことを、更生の意志が弱い人物だとは決して思えない。

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