「マスクは“下着”だから外せない――」 マスク生活が引き起こす影響を霊長類学者の視点から指摘

国内 社会

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 今年もまた暑い季節がやってくる。気象庁の予測によると、6月~8月は全国的に2年ぶりの猛暑になりそうだという。

 マスクを着けて炎天下を歩くのも3年目、もはや慣れっこになってはいるものの、一方で湧き上がってくるのが、「いったいいつまで続くのか」という思いだろう。

 アメリカやヨーロッパでは規制や着用義務を緩める国が相次いでいるが、世界最大の人口を擁する中国ではいまもゼロ・コロナ政策にこだわり、ロックダウンの長期化で住民の不満が高まっている。

 日本はというと、感染者の全国的な減少は認めながらも変わらず慎重な専門家群と、とかくリスクをあおるメディアを見れば、もうマスクは不要、という大胆な政治決断は考えにくい。もともと同調圧力の強いお国柄、苦笑いで周りに合わせつつ、夏を迎えてもマスク生活が続く可能性が最も高そうだ。

マインドリーディングの危機

 気になるのは、これだけ長くマスク越しのコミュニケーションが続くことの影響だろう。目は口ほどにものを言う、とはよくいわれるが、霊長類学者の正高信男氏によると、「ヒト以外の動物では、視線を交わすことはけんかを売ること」なのだそうだ。ガンを飛ばした(視線が合った)のがけんかの原因というのも、理由のないことではないらしい。

 もともと霊長類は怒りや恐怖、親しみなどの感情を口唇部の動きで読み取っていて、人間においてもそれは同じなのだと同氏は語る(『マスクをするサル』、新潮新書)。以下、同書から引用して紹介しよう。

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「注目しなければならないのはマスクを着用することが浸透することで、その問題の口唇部が隠されてしまったということの方だろう。マスクを着けていると、相手の目と眉しか露出していない。これで相手の気持ちがマスクなしの時のように忖度できるとは、到底考えられない。常識的に考えて、顔面によって提供される情報量は激減しているのだから、相手の気持ちを読むこと(マインドリーディング=mind reading)はそれに比例して困難になっているはずである」

 実際、マスク越しだと、知り合いでも判別に迷うことさえしばしばだ。マスクが相手の認識自体を大きく損ねているわけで、長年、対人コミュニケーションの蓄積がある大人はまだしも、年少になればなるほど様々な影響がありそうだ。

顔の中心がブラックホール化

 現在の状況を、正高氏は「顔の中心にかなりの広さのブラックホールがある」ようなものだと評している。

 もともとは感染症の予防、感染する恐怖からマスクをつけ始めたはずなのに、いつからかつけていないことを批判されたり、攻撃されたりする恐怖のほうが上回ってきているのかもしれない。日本の社会全体で、ここまで個人が「自分を晒す」ことを避けた時代は有史以来のことだろう。正高氏はその影響をこんなふうに予想する。

「マスクなしに外出できない心理にあると、当然マスクを外すのは何がしか恐怖を伴う行為と化す。面識のない他人の眼があると、親しい知人が相手であっても、ためらいをおぼえるのは不可避である。このためらいの感情が、しばしば羞恥心と呼ばれるものの実体だ。社会的場面で自分を晒(さら)すことへの恐れ、とでも定義することができるだろうか」

「おそらく人類史のなかで、陰部の覆いがもっとも原初的な、身体の延長物であったのかもしれない。だからこそ、旧約聖書にもアダムとイブのエピソードとして記載されているのだろう。

 ところが21世紀も20年が経過した今日に至り、人類は予想だにしなかった新たな身体延長物を持とうとしているのではないか。マスクである。

 公共交通に乗ると、必ずアナウンスがあり、国土交通省からのお願いでマスク着用が呼びかけられる。イベント会場、大型店舗しかり。子どもの時分、風呂上がりに裸でうろうろすると大人に叱られた時と、あまり変わらぬ、行き届いた指導がなされている。

 マスクを着けることに不自然さを感じなくなったとき、それは下半身にはいた下着と同じものになるかもしれない。その時、マスクなしに人目に晒されることに、今度は恥じらいを感じ始めるのではないかと推測される」

 いずれは日本人もマスクなしの元の生活に戻るだろう。その時、電車やイベント会場、大型店舗などで私たちは他者の顔をどう見るのか。どこに目を向けるのか。何を感じ、何を恥じらうのか。サル学でも観察験したことがない事態がもうすぐ訪れることとなる。

デイリー新潮編集部

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