嘘の約束を重ねるロシアの交渉術とは 橋下徹氏の「人命第一」論は現実的か

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 ロシアのウクライナ侵攻についてのコメントの中で、橋下徹氏のそれは異彩を放っているといえるだろう。橋下氏の主張の核心は「人命が第一」というものだ。

 橋下氏がテレビやツイッターで展開しているのは概ねこのような主張である。

――日本も含めた西側諸国、あるいは国際政治学者など「専門家」は原理原則を主張して、ウクライナに「ロシアと戦え」と言う。しかし、それでウクライナの人命は多く失われているし、このあとはもっと悲惨なことになる。たとえみっともなくても、屈辱的でもロシアに譲歩して、市民の犠牲を最小限に減らすべきだ。NATO加盟を断念するのも手である。逃げることを恥じてはいけない。人命よりも大切なものはないのだから。NATO、ウクライナ側とロシア双方が譲歩して停戦協議を進めるべきだ――

 橋下氏の主張は「協議で合意したことをロシアが守る」という前提になされているようだ。ウクライナが協議で妥協し、非武装化したらそれで市民の命が救われるのか、あるいはウクライナは独立国として存在し続けられるのか。そこについては曖昧だ。

「これだけ世界が注目している状況での約束ならば守るはず」というのはいささか楽観的な考えかもしれない。そもそも今回彼らが踏みにじった国際法は、現代の世界における大きな約束のようなものである。

 ロシア研究の第一人者でテレビのニュース解説でもおなじみの中村逸郎氏の著書『ロシアを決して信じるな』には、知人のロシア人が「嘘」について語るエピソードが紹介されている。こうした経験から、中村氏は日本にとっての重要課題、北方領土交渉についてはかなり悲観的な見方を示している。以下、同書第4章「決して信じるな」から抜粋・引用してみよう。

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だまされやすい人を狙え

 ロシア大統領の執務室が設けられているモスクワ・クレムリン……。

 城塞に囲まれたロシア政治の中枢を望む一等地。そこに、カフェーの「ドクトル・ジバゴ」がある。このカフェーに隣接するホテルに宿泊していたわたしは2019年2月7日、友人ミハイールとの再会を楽しみにしていた。かれは、モスクワ市内の元ソ連共産党地区委員会の幹部であった。(略)

 その日、わたしは、ミハイールと「ドクトル・ジバゴ」で久しぶりに軽めの昼食をとる約束をしていた。真っ白なテーブルクロスが敷かれたテーブルを挟んで、ミハイールはシベリア名物のペリメーニ(羊肉などの水餃子)を口に運びながら、ロシア人の本性をほのめかす。

 ミハイールは言うのだ。

「相手を信じやすく、だまされやすい人は、すぐにロシア人の恰好(かっこう)の的(まと)となり、だまされてしまう。このタイプの人間には、嘘の約束をするのが一番だ。逆に、頑(かたく)なに相手の要求を拒否する人よりもずっと扱いやすい。だって嘘だとわかっても、相手は『そんなはずはない。なにかの誤解でしょう』と勝手に信じ込んでくれるからね。だから、ロシア人はどんどん嘘の約束を重ねていけばいいだけのこと。実際には何も実行しなくてすむし、失うものはないので、こんな楽な相手はいない」

嘘に嘘を重ねるのがロシア流

 わたしとミハイールはそのとき、北方領土交渉の行方について会話していた。領土問題の詳しい経緯を知らない友人は当初、歴史の複雑さのあまり、頭を抱えてしまった。かれは一息ついてから姿勢を正し、わたしの方に身を乗り出して言ったのが、先の一言だった。日本は、ソ連、そしてロシアにだまされているのだろうか。

 嘘の約束を繰り返すやり方が、ロシア人の交渉術と言わんばかりに得意気な表情をミハイールは見せる。わたしは、ロシア人の毒性に触れたように感じた。交渉には相手がおり、問題解決にむけて互いに真っ向から冷静に話し合っても、そう簡単に埒が明かないものだ。だから、まずは相手を油断させるために嘘の約束を交わす。その内容が相手にとって、不利なものにならないのがコツのようだ。

 こうして交渉の主導権を、秘かに握る。そうはいっても嘘はばれるわけで、多くの場合、相手は激昂(げっこう)し、冷静さを喪失する。でもお人好しの人間は、「そんなはずはない」と相手の本心を探ろうと、積極的に関わってくる。その場合、さらに新しい嘘をつけば、相手はホッと安心する。安心させるために、さらなる嘘を重ねていく。まさにロシア人に毒を盛られるのである。

 どんなにお人好しといっても、最後には不信感を抱き、交渉への熱意を消失させるはずだ。しかし、ロシア人は嘘がばれてしまっても「悪いのは嘘をついた自分たちではない。気付いた相手に非がある」と開き直る。ロシアの流儀は、交渉のはじめに嘘をついておく、つまり、嘘から交渉をスタートさせるというものだ。(略)

領土返還交渉は終わった

 安倍首相はプーチン大統領との首脳会談では冒頭、ファーストネームの「ヴラジーミル」と呼びかけることが多かった。外国の指導者がプーチン氏を、そのように呼ぶのは珍しい。もっとも会談回数が多いカザフスタンのナザルバーエフ前大統領でさえ、敬称を用いている。硬直した領土交渉に対し、プーチン氏との個人的な関係を築くことで、突破口を開きたいという安倍首相の心情は理解できなくもない。

 ただ、プーチン氏はそのような甘い誘惑を受け入れるような性格ではない。かれはロシア国益を担う大統領であり、有権者の直接投票で選出されたという自負心が人一倍大きい。プーチン氏は、相手が自分との間柄を友だちの関係にしたいという下心をもっていると見抜くと、それを突いてくる。相手をお人好しの政治家と捉え、子ども扱いする。容赦なく揺さぶり、嘘の約束を連発する。だから、プーチン氏と外交交渉するのは、要注意なのである。

 このようなロシアの言動を見極めると、つくづく「外交交渉とは、武器を使用しない戦争」に等しいように思う。国家関係は友情関係に転化できるほど甘くはない。もちろん、国家間の難題を武力で解決する方法もあるが、あまりにも犠牲が大きくなってしまうし、その覚悟も必要だ。いくら代償を払っても、必ずしも戦利品を得られる保証はない。

 ロシアを相手の領土交渉……。

 まずは仕切り直しする勇気をもち、永久に存続するはずのないプーチン政権の行く末を見定めてからでも遅くない。

 2020年8月28日、安倍首相は辞任を発表した。そのときのロシア大統領報道官ペスコフ氏の声明は、以下の通りだった。

「安倍晋三首相は、日露関係の発展に多大な貢献をしました。そして、すべての係争問題の解決に尽力され、ロシア大統領とともに共通の利益を生み出すように努力されました」

 ペスコフ氏の口からは、「平和条約」や「領土交渉」という文言は一切出てこなかった。もうロシアを信じて領土交渉するのは、やめた方がよいのではないだろうか。

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 停戦協議が進むことを望まない人はほとんどいないだろう。ただし協議で定められたことが守られるかどうかは別の問題なのかもしれない。

デイリー新潮編集部

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