「万歳!」戦後、出獄した共産党員が受けた朝鮮語の歓迎 隠された党の歴史を紐解く

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日本人と朝鮮人の連帯を訴え…

 式に続いて府中刑務所前では、ぐるぐる回るデモが展開されたのだ。歓喜で収まらない群衆の興奮が伝わってくるようだ。

 日本人共産主義者の岩田英一は、この時に歓迎の辞を述べた金斗鎔を高く評価している。

「まことに知的な左翼でした。彼は絶叫などせずに、含むように『府中組』における18年余の獄中生活を慰労し、その不屈の闘争を称賛し、また新時代の到来における日朝人民の連帯を訴えていた。私が感動したのは、金斗鎔が『出獄戦士万歳!』『日本共産党万歳!』と言って歓迎の辞を結んだことです」(吉田健二「戦時抵抗と政治犯の釈放〈3・完〉――岩田英一氏に聞く」『証言 日本の社会運動』法政大学大原社会問題研究所)

 それは徳田球一の第一声が、

「今までは天皇がわれわれを裁いた。今度はわれわれが天皇をひっくくって裁くんだ。天皇の嬶(かかあ)なんぞは誰かがいってやっちまえといった調子のものであった」(寺尾・同前)

 と「天皇制打倒」を感情にまかせ、暴力的に訴えるのとは対照的だった。金斗鎔も金天海も、極めて理性的に同志の出獄を祝い、革命にむけて日本人と朝鮮人の連帯を訴えたのである。

「歓迎の群衆は、殆ど朝鮮人であった」と描写

 岩田と共に出獄式に参加した中西伊之助は、出獄式に参集したほとんどが朝鮮人で、日本人の出席者はわずか二、三十名であったと述べている。

「数台のトラックに赤旗をひるがえして出迎えた数百人の出迎え人は、殆ど朝鮮人連盟の諸君だった。その中に混ざっていた日本人はわずかに二三十人にすぎない心細さであった。(中略)だからその中にいた日本人で、朝鮮人諸君にたいして恥ずかしくもあり、肩身のせまい想いをしたのは、わたしばかりではなかったであろう」(中西伊之助「日本天皇制の打倒と東洋諸民族の民主的同盟」「民主朝鮮」1946年7月号)

 この時の光景を、収監されていた李康勲(光復会顧問、尹奉吉義士記念事業会会長、前独立運動史編纂委員会調査室長)も、『権逸回顧録』の中で次のように描写している。

「獄門を出た私は、怪奇な光景に唖然とならざるを得なかった。小雨が降っている獄門の前の広場には、数千名の群衆が『出獄革命志士歓迎』と書いたプラカードの下で赤旗を振りながら私たちを迎えた。釈放された政治犯十六名のなかで朝鮮人は私と金天海だけで、他はすべて日本人であった。しかし歓迎の群衆は、殆ど朝鮮人であった。日本人があるいは混ざっていたかもしれないが、全部同胞のようであった。その群衆の中から、ひとり、太極旗を高々揚げた人が“我が独立闘士、李康勲先生は何処にいますか、李先生は何処ですか!”と叫んでいた。彼は徐相漢で、群衆の中のただ一人の民族主義者であった。今も、あのときのことを考えると感謝の念が込み上げてくる」

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