「万歳!」戦後、出獄した共産党員が受けた朝鮮語の歓迎 隠された党の歴史を紐解く

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 今年、結党100年を迎える日本共産党。日本で唯一名前を変えていない政党だが、その党史には書かれざる一幕がある。戦後、出獄した共産党員たちが、誰の力を借り、どう再建していったかが抜けているのだ。いま初めて明らかになる党復活の真実。

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1945年10月10日、その日は朝から雨であった。午前10時、戦前の共産党の代表的活動家である徳田球一を先頭に、志賀義雄、金天海、そして黒木重徳や山辺健太郎ら16名の共産党員が、「天皇制打倒」を叫びながら、東京・府中の刑務所の獄門より出獄した。この時、府中刑務所前には、約400名の人々が「出獄革命志士歓迎」のプラカードを掲げ、赤旗や太極旗を振りながら待ち受けていた。

 驚くべきことに、そのほとんどが朝鮮人だった。日本人はわずかしかいない。彼らはここ府中に向かうトラックの上で、「インターナショナル」と「にくしみのるつぼ」をかわるがわるに歌い続けた。中野の豊多摩刑務所から出獄しトラックに乗った共産党幹部の寺尾五郎は、はじめて東京の空に革命歌が鳴り響くのを聞いた。そして「政治犯釈放運動促進連盟」の金斗鎔や朴恩哲ら朝鮮人の集団と府中刑務所に向かった。その時の様子を寺尾は「1945年10月に出獄して」(「季刊三千里」1978年15号)の中で次のように回想している。

「よくみると、半分ぐらいの朝鮮人は革命歌の歌詞も知らず、どう見てもマルクス主義も社会科学も知ってそうもない人たちであり、いまどこかの闇市から飛び出してきたと思われる朝鮮人なのである。私は感動した。なんの理論もしらないが、実生活の生の体験で、国家とは監獄であり、正義とは革命であることを無条件に知っている人達、この人々が革命的大衆というものだと思った。それは私が生まれて初めて接した革命的大衆であった」

第一声に沸く朝鮮人の群衆

 府中刑務所正門前で開催された出獄式は、金斗鎔が司会進行し、徳田球一、志賀義雄、そして金天海が出獄者を代表して挨拶した。

「出獄する時間十時がきた。(中略)同志キントウヨウ(金斗鎔)の歓迎の辞にこたえて、同志トクダ(徳田)が、われわれ一同を代表してまず演壇へのぼった。(中略)最後に同志キン・テンカイ(金天海)が登壇した。こんどは朝鮮語の歓迎の嵐である」(松本一三「出獄前後 十月十日の思ひ出・下」「アカハタ」1946年10月13日)

 小雨の中で出迎えた400人を超える朝鮮人の群衆は、待ち望んでいた金天海の第一声に沸いた。

「同志キンが降壇すると、ただちにデモに移った。出迎者たちの胸にたぎりたつ興奮と感動はそのまま解散することをゆるさなかったのである。ワッショ ワッショ……ワッショ ワッショ……赤熱した熔岩の流れのようにぐるぐると広場を回るデモはいつ止まるともわからなかった」(松本・同前)

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