一橋大学を卒業後、40年ほど「引きこもり」…当事者が激白 “毒母”が生み出す「高齢引きこもり問題」

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就職したら虐待を肯定してしまう

 3日に1回は繰り出されたこの言葉は、致命的な傷になったと池井多さんは思い返す。

「幼い子にとって親の死は、自分の死より恐ろしい。どんな理不尽でも受け入れていました」

 もし、これが「殺してやる」という言葉だったら、逃げるなどして対応しうる余地がある。が、「死んでやる」と言われては、なす術もない。池井多さんはこの言葉で「自分の主体が完全に剥奪された」と振り返る。母が推奨するエリートサラリーマン以外の人生を、自分で選択することができなかったのは、ここに起因するのではと。

 一橋大には無事に合格したが、母親からは「おめでとう」の一言もない。返ってきたのはこの言葉だ。

「おまえは明日から英語を勉強しなさい。私は一橋の英語のレベルをよく知っているから」

 爆弾の成分には「報酬の不在」が含まれていると池井多さんは語る。報酬なき人生だった。だから自分は働けないのか、と。就職の内定を手にし、動けなくなってしまった23歳の時、母親により埋め込まれた時限爆弾がついに作動した。

「自分の人生は一体、どこにあるのか。ここまでだと思いました、母の言うことを聞くのは。就職したら母の虐待を肯定してしまう」

うつの原因は母親への怒り

 世はバブル景気にさしかかる80年代半ば、当時まだひきこもりという概念はなく、池井多さんはどうにも格好がつかないと海外へ。

 バックパッカーをしながら安宿にひきこもる「そとこもり」などを経て、今もうつ病を患って働けない状態が続いている。

「毎朝、母親への怒りで目が覚めます。うつの原因は母親への怒りです」

 二十数年前、自らの再生をかけ父親を通して「家族療法」を提案したが、母親は自身の虐待行為を全面否認。以来、実家とは音信不通のままだ。虐待の加害者である母親は、自らの行いをなかったこととし、思うようにならなかった息子など要らないとばかりに放逐した。池井多さんの生活保護の扶養照会にすら、応じなくなって久しい。

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