誰が大統領になっても韓国は「内紛の時代」へ 「レミング」が生む李朝への先祖返り

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キーセンまでがデモをした

 A氏が指摘する通り、韓国の政治状況は60年前と似てきました。1960年、不正選挙を糾弾する学生デモにより強権的な李承晩政権が倒された。「四・一九学生革命」です。

 次の張勉(チャン・ミョン)民主党政権は発足9カ月後の1961年5月に早くも消滅しました。保守政治家の内紛が激化する一方、北朝鮮との統一を訴える左派が街頭に繰り出して社会は騒然となりました。その混乱を収拾するとの名分を掲げた朴正煕(パク・チョンヒ)少将らがクーデターを敢行したのです。

 21世紀の韓国人――ことに若者は「朴正煕は民主政治を破壊した張本人」と見なしがちです。しかし、当時を生きた知識人の多くが「クーデターを歓迎はしなかったが、ほっとしたのも事実だ」と打ち明けます。

 当時は1953年に朝鮮戦争が終わって10年にもならず、戦禍の記憶が生々しかった。「混乱に乗じて北朝鮮が再び南進してくるのではないか」との不安が知識人の間でも頭をもたげていたのです。言論の自由を保障した張勉政権下で、それまでの不満が社会各層から一気に噴出。その騒然とした様を「キーセンまでがデモをした」と説明してくれる人もいます。

 クーデターに成功した朴正煕少将は大統領に就任、1979年10月に暗殺されるまで18年間にわたり強権的な体制を布きました。暗殺直後、韓国は民主化するかに見えましたが、同年12月に全斗煥(チョン・ドゥファン)少将らがクーデターで政権を奪取。1988年2月に大統領を退任するまで、韓国では軍人による独裁が続いたのです。

党争が政党政治の芽を摘んだ

「文人が圧倒的に優位だった朝鮮半島では異例の時代だった」と韓国研究者の田中明氏は評しました。その「異例」がさほどの抵抗もなく受け入れられた背景には、文官の間の熾烈な抗争――党争で国が衰微した李氏朝鮮の苦い記憶がありました。

 李承晩とそれに続く張勉の両政権は李朝以来の伝統的な文民政権であり、これまた伝統的に党争に終始して国を混乱に陥れた。大韓民国の建国初期の知識人からすれば、混乱のあげくに日本の植民地に転落した「50―60年前の悪夢」を再び見る思いだったのです。

 朴正煕大統領も「文人政治の歴史的な無責任さ」を批判しました。1970年に日本語で出版された『朴正煕選集 ①韓民族の進むべき道』の第2章「わが民族の過去を反省する」で、李朝の党争がいかに国を蝕んだかを説いたうえ、「四・一九後の民主党新旧派分裂と対照してみると興味深い」(76ページ)と書いています。さらに、大韓民国建国後の政治的な混乱は李朝時代の党争に根があると断じました。

・党争はわが歴史上にきわめて有害かつ恥辱的な内紛習性を残した。とくに官位と官職欲を満足させるためには手段方法を選ばぬ残忍性と、排他的な朋党結合、そして妥協と寛容を知らぬ苛烈な闘争史は、後代における議会民主々義と政党政治の可能性をそこない、ついには解放後のわが国民主々議輸入十七年史を失敗に帰せしめた一大要因であったといっても過言ではない。(79ページ)

大衆化した党争

――もう、李朝ではありません。現代では指導層の無益な争いは、国民が批判し阻止するはずです。

鈴置:そうはならないのです、韓国では。指導層を諌めるどころか大衆が大型デモで政権を揺らす手法が定着しました。デモの背後には政権に対抗する政治勢力がいることが多い。「党争の大衆化」です。

 李承晩政権を倒したのも学生のデモでした。張勉政権も親北朝鮮派のデモに揺さぶられ、その混乱につけ込んだ軍部に政権を横取りされました。1987年、全斗煥政権も大規模な民主化党争に押され、大統領の直接選挙制を受け入れた。

 李明博政権も2008年の就任早々、激しい「狂牛病デモ」に見舞われました。「親米派の李明博大統領が米国産牛肉を輸入し続けたため、遺伝学的に狂牛病に弱い韓国人が大量死する」という、左派が流した荒唐無稽のデマが原因でした。

 朴槿恵政権も左派の組織したデモに直面、2017年に弾劾に追い込まれました。文在寅政権は保守派の大型デモに直面しそうになりましたが、2020年以降はコロナ対策の名分で集会を禁止、窮地を脱しました。

「党争の大衆化」に警鐘を鳴らす人もいます。ジャーナリスト、金泌材(キム・ピルジェ)氏です。朴槿恵弾劾要求デモを見て保守系メディア、趙甲済ドットコムに「『レミング効果』で見た韓国人の『群集心理』」(2016年11月16日、韓国語)を書きました。

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