【袴田事件と世界一の姉】巌さんの縦縞パジャマに付いていた「血」を巡る異様な新聞報道

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経営するバーを閉めて就職

 西宮さんが提供してくれた資金で、巖さんは清水市内で「暖流」というバーを始めた。巖さんは支配人となり、晴れて結婚したA子はマダムを務めた。しかし、寡黙すぎる上、客と巧みな会話ができるような性格ではない巖さん。姉のひで子さんが「巖はとてもとても、水商売なんかに向いた性格じゃない。でもまあ太陽でもボーイやったんだし、そんなに心配はしていなかった」と最近、筆者にも語っていた。しかし「暖流」の経営は火の車となり、1965年には潰れてしまう。西宮さんが巖さんに提供した金は50万円以上、今なら相当の金だが、返済を求めなかった。

 西宮さんは、巖さんが雇われで地味な仕事をしたほうがよいと考えてくれた。その時に巖さんに紹介したのが、こがね味噌だったのだ。西宮さんは遠洋漁船などに食糧や酒を提供しており、味噌や醤油はこがね味噌から仕入れていた。同い年の橋本藤雄専務とは懇意だったという。山崎さんは「西宮さんは『(巖さんが)あんな事件に巻き込まれて……俺が紹介したばかりに』とものすごく悔やんでいました」と振り返る。

 A子には別のバー「萬花」を持たせたが、浪費癖もある奔放な性格で、すぐに店は潰れた上、馴染み客の男と懇(ねんご)ろなり、巖さんとの間に生まれたばかりの男の子をほったらかして出ていってしまった。しかし、事件後、警察は、巖さんを悪人に仕立てるため「A子は巖の暴力に耐えられず出て行った」などとした。

 働き者の巖さんは橋本専務に可愛いがられた。宿舎と線路を挟んだところにある邸宅に招かれ、小遣いをもらったり背広を新調してもらったりしたという。たまの電話でも、ひで子さんや母・ともさんに「(橋本専務は)すごく温かい人だ」と話し喜んでいたという。ボクシングで挫折し、バーの経営もうまくいかない巖さんのことを心配していた家族は安心していた。巖さんには、橋本専務に恩義こそあれ、誰がどう考えても恨みなどあるはずもなかった。

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