まもなく丸2年のコロナ禍 感染者数報道がもたらした“数値過敏症”という病 評論家・與那覇 潤

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数値を追うあまり買い物ができなくなる現象

 平成の末期に待機児童(保育園不足)の問題がクローズアップされた際には、「まぁ、子育て世帯は大変だよね」といった相場観が社会的に共有されていました。ところがそれはコロナで完全に吹き飛び、いまや子ども1人につき追加の10万円をと言っても、「資産家の家庭には不要」、「世帯主以外が稼いでいるかもしれない」、「子どもを作れないくらい貧しい人はどうなる」といった怨嗟が渦巻いています。政府がお金をつぎ込めばつぎ込むほど、不公平感が惹起されて国民どうしがギスギスしていく、出口のない状態です。

 お金というのは本質的に、数値の形で示されざるを得ないわけですが、その副作用の存在に、私たちはもっと敏感であるべきでした。

 たとえばインターネットでショッピングする際、価値を判断する指標として「数値」(価格)に目を奪われすぎると、かえって買い物ができなくなる経験は、多くの人が体験済みではないでしょうか。もっと安いサイトが他にあるかも、待っていればタイムセールのクーポンが届くかも……と「1円でもお得になるタイミング」を気にしているうちに、狙っていた品物自体が売り切れてしまう。

 数値化を通じて現実世界の感じ方を微細にしすぎると、「この辺が適正な水準だろう」といった判断ができず、細かな違いを偏執狂的に追い求めがちです。そんな現象が、個人ではなく「社会」という規模で起きたらどうなるでしょうか。

ゼロコロナ幻想

 お察しのとおり、その帰結が「ゼロコロナ幻想」です。感染者数が「せめて3ケタにならないと安心できない」と言っている人は、3ケタになったら「いや2ケタにならないと」とゴールポストを動かし、最後はゼロを要求し始める。

 主観的な安心を自らの身体でつかみ取ることができず、むしろ「客観的」だと称する数値に自身の感覚をハッキングされてしまう。そうした「広義のコロナうつ」が、昨年末のオミクロン株パニックで息を吹き返したのは危険な兆候です。

 この「数値化の副作用」をさらに掘り下げると、資本主義の問題に行きつきます。近年、マルクスの『資本論』の何度目かのブームが来ていますが、同書が冒頭部(第1巻第1篇)で論じているのは「搾取」や「環境破壊」の問題ではなく、実は貨幣論なんですね。

 お金(貨幣)が便利なのは、あらゆるものの価値を数値という「同一の尺度」にならしてくれるからです。物々交換で欲しいものを手に入れるのは、相手が欲している「物」を自分が持っていないといけないので大変ですが、お金さえ持っていれば何にでも換えられる。それはまさにイノベーションであり、私たちの暮らしを豊かにしてきました。

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