まもなく丸2年のコロナ禍 感染者数報道がもたらした“数値過敏症”という病 評論家・與那覇 潤

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主観的な身体感覚が狂う

 私自身、2014~17年にかけて重度のうつ症状と、そこからのリハビリを体験しました。詳しくは『知性は死なない』(文春文庫)に書いたことですが、うつの本質は、言語や数値のような客観的な指標と、自身の主観的な身体感覚との「噛みあわせ」が壊れることにあると考えています。

 うつ病体験者以外にも広く知られている映画に、堺雅人さんと宮崎あおいさんが主演した「ツレがうつになりまして。」(2011年。監督・佐々部清、原作・細川貂々)がありますね。この作品で一番「うつが描けているな」と感じるのは、堺さんが病気の前は得意だったはずの料理に失敗してしまうシーンなんです。

 うつからの回復の途中で、自信をつけようと久々に調理に挑戦してみた。ところが全然うまくいかず、調味料を入れ過ぎてやたらとしょっぱい味になり、「やっぱり僕はダメだ」と落ち込んでしまう。ここに実は、うつ病の体験者のみに限らず、あらゆる人に大事なメッセージが隠れています。

 私たちは普段、レシピに塩・こしょうを「適量」振ると書いてあるとき、「適量とは厳密には何グラムですか」とは聞きませんよね。ぱっと振りかけた時の手の感触や、素材の上に粉末が広がった際の印象で「なんとなく、こんなものだろう」と納得する。そんな無数の「なんとなく」が積み重なることで、私たちの日常は成り立っています。

「コロナを人にうつすかもしれない」と自粛を強要

 しかしうつ病になると、この「なんとなく」が壊れてしまうわけです。だから堺さんの役のように、いつまでも振りかけて味の濃すぎる料理にしてしまったり、逆にそれが怖くて調理を始められなかったりする。うつの時は「適量」といった曖昧な表記ではなく、「小さじ半分」のように厳密に分量が記載されているレシピの方が、ありがたく感じられるんですね。

 こうした目で見たとき、新型コロナ禍で起きたことは、日本社会全体の「うつ病化」に他なりません。日本人の誰もが、自分自身の感覚に基づいて「まぁ、こんなものだろう」という判断を下せない。政府やメディアが「感染者数が〇人になったらステージいくつ」と指標を決めて、それに従う形でないと、「パーティーを開くか」「旅行に行くか」も決められない。

 どうしてそうなったかといえば、私たちが「恐怖や不安」に基づくコミュニケーションを選んでしまったからです。特にひどかったのが、「コロナを人にうつすかもしれないじゃないか」といった脅し方で、自粛を強要したことですね。

 SNSが定着したことの副作用で、元来はごく小さな不祥事に過ぎないのに全国から野次馬を巻き込んで大炎上に発展する例が、コロナ禍の前から増えていました。その状態で「自分が罹らないだけではダメだ。人に感染させるのもいけないんだ」などという基準を設けたら、怖くて誰も自由に行動できなくなる。結果として、「いえいえ、政府の数値目標に則っております」という言い訳に、みんなが依存するようになりました。

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