家電“質”販店を生み出した「人」からの経営――野島廣司(ノジマ取締役兼代表執行役社長)【佐藤優の頂上対決】

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M&Aでは解放軍になる

佐藤 そうした会社の中へ、コロナ禍で仕事が減った航空会社やホテルの人たちを受け入れました。

野島 マニュアルがないことにびっくりしていましたね。最初、ホテルに200~300人集めて「あなたたちは追い出されてきたのではなく、企業留学です」とお話ししましたが、とにかく姿勢がいい。でも彼ら彼女らは姿勢から言葉遣い、接客まで、すべてマニュアルなんです。

佐藤 一番大変な時期に、他の会社が働く場所を提供するのは、たいへん意義のあることです。外国では考えられませんから。

野島 最初は慈善的発想だったのですが、翌年は国が多少なりとも援助してくれるようになりました。だから結果的に、従業員のシェアという文化を作り出せたと思っています。もうみんなほとんど帰っていきましたけどもね。

佐藤 ノジマファンになった人も多かったでしょう。

野島 そうだと嬉しいですね(笑)。

佐藤 人の流動化が進む中で重要になってくるのは「健全な愛社精神」です。それには、社訓を読ませたり始業前に体操したりするのではなく、自分の居場所がここだと実感してもらうことが重要だと思います。

野島 愛社精神は、会社から愛をもらっていると従業員が感じなければ、出てこないと思いますね。「出せ」と言われて出てくるものではない。会社が従業員を愛し、幸せにする義務があると考えたら、その分だけ返ってくるものですよ。

佐藤 私も同じ考えです。私は今も外務省が好きなんですよ。ロシア語を身につけさせてくれましたし、逮捕後も給料をゼロにできるところ、6割支給してくれました。それから裁判で有罪にはなりましたが、処分はされなかった。国家公務員法の規定で自動失職したという形で辞めているんです。

野島 それだけ佐藤さんが貢献していたということじゃないですか。

佐藤 貢献していてもスパッと切ってしまう役所はいくらでもあります。辞めた後に反政府作家にならなかったのは、やっぱり苦しかった時に助けてくれた人たちがいたからです。

野島 そういう会社にウチもしないといけないですね。

佐藤 ノジマは、ニフティをはじめとして、さまざまな会社を買収されていますが、そこには野島さんの考え方をどう反映させているのですか。

野島 まず、私どもは占領軍にはなりません。解放軍なんです。当社から人を送ることは少なく、ニフティとセシール以外は、その会社のプロパーが社長を務めています。ではノジマの考え方をどう伝えるのかといえば、先ほどお話しした冊子がありますから、それを読んでもらって共感していただく。まあ、まったく共感できないという人は辞めていきますけれども。

佐藤 その会社に元からいた人たちが、意識改革をして作り変えていくのですね。

野島 そうです。ノジマに参画してくださいという形です。

佐藤 これまでにさまざまな会社を買収されて成功も失敗もあります。最近では苦境にあるスルガ銀行の株式も引き受けられました。M&Aはどんな基準で決めているのですか。

野島 私が実際にやったのはニフティ買収までで、あとは副社長の息子がやっていますが、基本は「デジタル」です。ニフティも、10月に買収したソニー傘下の衛星放送事業会社AXNもそうです。もう一つ、あるとすれば「人」ですね。企業教育研修コンサルティング会社のBGWがそうです。

佐藤 私はメールでニフティのアドレスを使っているんです。

野島 ありがとうございます。以前からそうですか。

佐藤 はい。

野島 買収後にニフティは全国でIPv6(インターネットの通信規格)に変えました。どこよりも上りも下りも速くて安定感がありますよ。ですから募集をしなくても、会員が増えている状況です。

佐藤 慧眼でしたね。ノジマは成功と失敗を繰り返しながら、大きくなっている印象があります。わが家ではヤドカリを飼っているのですが、どこかノジマを想起させるところがある。ヤドカリは大きくなると、貝殻を替えると同時に脱皮して成長していきます。その脱皮する時が危険なのですが、そこをうまく切り抜けていく。その姿に重なります。

野島 じゃあ、ヤドカリと同じだ(笑)。ただね、株式市場ではなかなかコングロマリット(複合企業)は評価されないんですよ。

佐藤 そうなのですか。コングロマリットは、ポートフォリオを組んで事業を行うようなものですから、戦略としては間違っていない。

野島 それがちゃんと評価されるよう結果を出していきたいと思っています。

野島廣司(のじまひろし) ノジマ取締役兼代表執行役社長
1951年神奈川県生まれ。中央大学商学部卒。73年、家族経営の野島電気商会(現ノジマ)に入社。78年取締役、91年専務になるも経営実権を母と弟に奪われる。94年、経営に復帰し社長就任。入社当時掲げた年間売上1千億円を達成した2006年に会長となる。一時、子会社社長に専念していたが、07年社長に復帰した。

週刊新潮 2021年12月30日・2022年1月6日号掲載

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