源氏物語は「処世術の実用書」、徒然草は「終活本」 古典文学の新しい楽しみ方とは

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平家物語はセラピー本?

 栄華を極めた末に滅んだ平家一門の鎮魂のために編まれた「平家物語」は、生者にとっても心の安寧に資する「セラピー本」となり得る。人の世の栄枯盛衰に想いを馳せ涙する時、クスリ不要のデトックス効果を招来するだろう。

「平家物語」は〈口惜(くちを)し〉の文学である。そう言いたいくらい物語は、残念無念を意味する〈口惜し〉に満ちている。平家にとっては敵方の熊谷次郎直実(くまがえのじろうなおざね)は、息子と同じ年頃の美少年・平敦盛(平清盛の甥)の首を泣く泣く討ち取ったあと、こう嘆く。

〈あはれ、弓矢とる身ほど口惜しかりけるものはなし。武芸の家に生れずは、何とてかかるうき目をばみるべき〉(巻第9「敦盛最期」)

 武士に生まれたがゆえに味わう憂き目……悔やんでも仕方のない出生を恨んだ直実はこれを機に出家。あとの〈口惜し〉はすべて滅ぼされた平家の公達(きんだち)の口から発せられる。清盛の愛子の重衡は前世で行った悪業が〈口惜し〉と言い(巻第10「千手前(せんじゅのまへ)」)、清盛の孫の維盛(これもり)は心にかかる妻子をもったことを〈口惜し〉と入水をためらう(同「維盛入水」)。知将で名高い知盛(清盛の四男)は、源義経の攻撃に、都を離れこんな憂き目を見る〈口惜しさよ〉と嘆く(巻第11「逆櫓(さかろ)」)。

 あの時ああしていれば、こうしていればという後悔と無念は、コントロール不能な前世にまで及んで際限がない。

 そんな無念を抱いて死んでいった魂を慰めるため、「平家物語」は語られた。華やかに栄えた平家一門が非業の死を迎えたため、怨霊となって現世に生きる人々に祟っていると考えられていたからだ。

 怨霊を慰めるためには、彼らの心に寄り添って生前の事績を語り、共感することが供養になる。

「平家物語」は〈口惜し〉の思いを抱えたまま死んでいった人々のためのセラピー本なのだ。

 そんなふうに死霊を癒やすことは生者を癒やすことにつながる。

泣くために語られれていた平家物語

 昔の物語は、目で字面を追うより、語りを耳で聴いて楽しむという性質のものが多いが、とりわけ「平家物語」は、琵琶法師が琵琶の音色に乗せて語る話を聴くという「語り物」の性質が強い。〈祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり〉……。声に出して読むと心地良い古典文学の中でも「平家物語」のリズムの良さ、文章のかっこ良さはずば抜けている。その心地良いリズムに乗せた物語に聞き手の耳は魅了される。のみならず、涙を絞る。

 実は「平家物語」には一つの“作法”が存在する。泣くことである。

「平家物語」が泣くために語られていたことは、戦国武将の逸話を収めた「常山紀談」(江戸中期)を読めば分かる。上杉輝虎(謙信)が「鵺」の段で〈しきりに落涙〉し、佐野城主天徳寺(佐野房綱)は〈あはれなる事〉を聞きたいと言って「那須与一」の段等に〈雨雫と涙をながして泣〉く(巻之1)。

 泣くことが死者への共感の意を表す最大の作法だからである。

 そのように同情と共感を寄せることで死者の魂は鎮まって、聞き手の心もカラダもすっきり、「明日も頑張ろう」という気持ちになる。

 昔の人にとって「平家物語」に触れることは一つのセラピーだったのだ。

 それは今の人も変わるまい。千年数百年読み継がれた古典文学は、生きる力を心身に湧き上がらせてくれる、古人からの贈り物なのだ。

大塚ひかり(おおつかひかり)
古典エッセイスト。1961年生まれ。早稲田大学第一文学部日本史学専攻卒。著書に『エロスでよみとく万葉集 えろまん』、個人全訳『源氏物語』など多数。最新刊は『うん古典-うんこで読み解く日本の歴史』(新潮社)。

週刊新潮 2021年12月30日・2022年1月6日号掲載

特集「面白くタメになる『古典文学』を味わう」より

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