「大屋政子」の毀誉褒貶 資産は300億円、“おとうちゃん”が再生した帝人の手のひら返し

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帝人に復帰

「もし政界にこれ以上留まるならば、帝人に外部から社長を入れる」

 大屋晋三に「政界を選ぶか、帝人を選ぶか」の二者択一を迫ったのは、当時、帝人のメインバンクだった三和銀行(現・三菱UFJ銀行)の頭取だった渡辺忠雄と日商(現・双日)会長の高畑誠一だった。高畑は晋三の鈴木商店の大先輩である。

 弱冠27歳だった高畑は世界の政治経済の中心であったロンドン支店長だった。第一次世界大戦が勃発すると、大番頭・金子直吉の指示で投機的といえるような買い付けの陣頭指揮を執った。本国を介さない三国間貿易を日本人として初めて手がけ、鈴木商店のビジネス拡大に大きく貢献した。

 さらに第一次世界大戦中には、連合国相手に大活躍し、連合国向けの食糧注文を一手に引き受けた。高畑は船もろともに売り渡す「一船売り」の離れ業をやってのけ、後に英国首相となるチャーチルに「高畑は、カイゼルのような男」と言わしめた。

 カイゼル(ドイツ語で皇帝)とは、ドイツの皇帝・ウィルヘルム2世を指す。左右両端を上にはね上げた八字型の口ひげ「カイゼル髭」で知られる。新航路政策を展開、積極的にドイツの海外進出を図った。海洋を舞台に暴れ回る高畑を、カイゼルになぞらえて、こう評したわけだ。

 1927(昭和2)年、鈴木商店が倒産すると、翌28(昭和3)年、高畑は永井幸太郎とともに、鈴木商店の子会社だった日本商業を日商と改め再出発を図る。日商は日商岩井となり、日商岩井はニチメンと合併し、現在の双日となっている。

「テトロンはウチが見つけた」

 晋三は政界に未練があった。参議院から衆議院に鞍替えし、政界の中枢に座る野望を抱いていた。

 だが、公職追放が解除され、戦前の大物政治家が次々と政界に復帰。参院議員の晋三に、もはや出番はなかった。

 政界を捨て、帝人に帰ることを決意した。

 1956(昭和31)年11月の株主総会で社長にカムバックした。

 帝人を立て直すべく社長に戻った晋三が最初に打った手は、ポリエステル繊維製造の技術を英国のICI社から導入することだった。

 帝人を立て直すべく社長に戻った晋三が最初に打った手は、ポリエステル繊維製造の技術を英国のICI社から導入することだった。これには「ウチのおとうちゃん」が口癖の政子も関係している。

 1953(昭和28)年9月、晋三は米国ワシントンで開かれた列国議員同盟会議に参議院議員団長として出席した。政子も同行していた。大屋夫妻がデュポン製の合成繊維・ディクロンに強い興味を持ったのは、この時だという。

「おとうちゃん、これええもんや。帝人で作れへんかいな」

 政子はディクロン製の洋服に惚れ込んだ。晋三はディクロンを見た時から「帝人が手がけるものはこれだ」と確信を持っていたという。

 帝人は英ICI社とポリエステル繊維(ディクロン)技術の導入について、水面下で交渉をしていた。しかし、特許権(ロイヤリティ)の取得には膨大な資金が必要になる。それに、原材料の輸入にも外資が必要不可欠だった。帝人は外資の手当のメドが立たず、交渉は進展していなかった。

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