【袴田事件と世界一の姉】巖さんに名誉チャンピオンベルト 30年支援したボクシング界の功績

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「ポパイ」と言われた新田渉世氏

 現在、神奈川県川崎市で「川崎新田ボクシングジム」を営む新田渉世氏は、「ひで子さんと東京拘置所に毎月のように面会に通いましたが、当初は、ひで子さんと弁護士しか面会を許可されなかった。やっと面会が許可されて、初めて巖さんに会ったのは2007年6月6日でしたが、死刑囚と話すということで緊張していました」と振り返る。

「年間19試合という日本記録をお持ちだと聞いています」などと切り出した新田氏に、アクリル板の向こうから巖さんは「あんたの顔はポパイに似ている。そういう顔は打たれ強いんだ」と言ったという。横浜国大出身という異色の経歴で、東洋太平洋バンタム級王者まで出世した強豪ボクサーは、心が通じたと喜んだ。その後は何度も面会することができて、ボクシング談議に花を咲かせた。

 ひで子さんは「巌はね、私には頓珍漢なことばかり言ってるのに、ボクシングの話になるとちゃんと話ができるみたいなんです。拘置所でも新田さんとは楽しそうに話すんですから。あれは不思議でしたね」と筆者に話していた。

年間最多試合数記録を持つ巖さん

 日本フェザー級6位が最高だった巖さんのプロ時代の戦績は29戦16勝10敗3分。KO勝ちは1つだけ。パンチ力はもうひとつだったが、「性格が優しすぎて追い込んだ相手にとどめを刺すことができなかった」と郡司氏らボクシング関係者は見ていた。反面、打たれても打たれても倒れずに前進するファイターだった。公式戦年間19試合は、現在でもプロボクシング界の最多記録だ。過酷な減量スポーツにあって「トンデモ試合数」だが、1950年代は現在ほど選手の健康管理が重視されなかった。プロ野球の稲尾和久(西鉄ライオンズ)、杉浦忠(南海ホークス)、権藤博(中日ドラゴンズ)などの名投手が、年間30勝も40勝もしながら酷使されて選手寿命を縮めたことにも通じる。

「パンチドランカー」という言葉があるが、打たれ強いタイプのボクサーは肉体が危険にさらされやすい。ひで子さんは「引退した頃も歩いていてちょっとよろっとしたり、少しおかしかった。ボクシングの影響があったんだと思っていましたね」と振り返る。ラウンドごとにミニスカートの美女がリングに上がるようなショーアップで華やかなボクシングも、一歩間違うと大きな危険が伴うスポーツだ。筆者は1990年6月、札幌市で北海道チャンピオンのボクサー米坂淳が後の世界チャンピオン薬師寺保栄にKO負けし、病院に運ばれて死亡した事故をたまたま取材した。打たれた米坂が飛ばす血の混じった唾の飛沫で、ノートが赤くなっていたのを思い出す。

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