【袴田事件と世界一の姉】巖さんに名誉チャンピオンベルト 30年支援したボクシング界の功績

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獄中からの手紙で動いた名評論家・郡司信夫氏

 ひとつのスポーツ界が冤罪事件にこれだけ力を入れるのは異例だ。新田氏は若いが、ボクシング界が巖さんを支援してきた歴史は古い。

 テレビのボクシング解説の草分け的存在で、著名なボクシング評論家だった郡司信夫氏(1908~1999)が嚆矢だ。1976年5月に東京高裁に控訴を棄却された巖さんが、直後に獄中から郡司氏に手紙を送った手紙には、「二十数年前に郡司先生の前でプロボクサーとして拙い試合を、しかし一生懸命に十数回お見せしたことのある袴田巖です。(中略)正真正銘『小生は無実である』ことを訴えてきました。しかしこの真実である血の叫びが過去30年にわたり、いまだに容れられません。(中略)どうか裁判において真実が勝利できますように郡司先生のお力をお貸しください」などと書かれていた。

「試合でぐらつかせた相手にとどめを刺せない優しい性格の袴田君に、殺人ができるはずがない」

 郡司氏はすぐにボクシング協会内で支援を訴える。1980年11月19日に最高裁が弁護側の上告を棄却し死刑が確定すると、「袴田巖さんをすぐに死刑台から取り戻そう」と「無実のプロボクサー袴田巌を救う会」(代表・高杉晋吾。後に「無実の死刑囚・元プロボクサー袴田巌さんを救う会」に改称)が発足し、ボクシング関係者らが参加。巖さんが1981年4月、静岡地裁に再審請求を申し立てたことを受け、支援の輪はさらに広がった。

 1991年3月には日本ボクシング界のレジェンドで元世界フライ級王者のファイティング原田氏(本名・原田政彦)が後楽園ホールのリングに立ち、巖さんへの支援を呼び掛けた。翌年、ヨシヒロジムの笹崎吉弘会長が「袴田巖再審支援委員会」を立ち上げて委員長となる。1994年8月に静岡地裁で第一次再審開始請求が棄却されて関心がしぼむが、ボクサー仲間たちが繰り出す「支援のボディブロー」は徐々に効いてくる。

「蛙飛び」の名ボクサー輪島功一氏登場

 そして1970年代に国民を熱狂させた北海道出身の名ボクサー、元WBA、WBC世界ウェルター級界王者の輪島功一氏が支援委員会の委員長となる。1976年2月、タイトルを奪われた相手の柳済斗(ユー・ジェド=韓国)に再挑戦し、15回に劇的なKO勝ちを収めてWBA王座に返り咲いた試合は有名だ。この時、ファンを熱狂させた直後に新宿で起きた人質立てこもり事件で、駆けつけた警官が「昨日の輪島の試合を見ただろう。自首をして、あの輪島の根性を見習って人生をやり直してみろ」と男を説得し続けたエピソードまである。

 対戦中、急に体を深く沈める姿勢から伸びあがって相手を打つ戦法から名付けられた「蛙飛び」や、急に無関係な方向を見て相手もつられて見た瞬間にパンチを見舞う「あっち向いてホイパンチ」、「風邪をひいた」とゴホゴホ咳をしながら体調を偽った記者会見で相手を油断させるなど、ユニークな頭脳派ボクサーだった。

 余談だが、筆者はあるテレビ番組で輪島氏が語っていた、「よく『才能があるけど努力しない、もったいない』と言う人がいるけど全く意味を成さない言い方です。努力できること自体が才能なのです」という言葉が、どんな偉人の名言よりも好きで、時折、拙筆に引用する。

 元人気ボクサーは、巖さん支援に活発に動いた。2006年5月には東日本ボクシング協会・袴田巌再審支援委員会が発足(輪島功一委員長、新田渉世実行委員長)、6月には輪島委員長が後楽園ホールのリングから支援をアピール。9月には輪島功一委員長がひで子さんと同ホールのリング上で支援アピール。11月には輪島氏やレパード玉熊(本名・玉熊幸人)氏、渡嘉敷勝男氏ら歴代チャンピオンら5名が最高裁へ要請書提出するなど、次々と盛り上げた。支援委員会は2007年7月のG8洞爺湖サミットに向けて、各国の東京大使館を回って首脳宛ての釈放嘆願書を渡し、法務大臣には死刑執行を停止させる嘆願書を出した。

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