石橋正二郎 ブリヂストン創業秘話 地下足袋屋はなぜ自動車タイヤの製造を始めたのか

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「均一価格」の足袋

 正二郎は次々と新機軸を打ち出した。当時、足袋は文数と品種によって複雑な値段がつけられていたため、商いが大変面倒だった。

 正二郎は文数に関係なく同じ価格にして売る「均一価格」制を採用した。上京した際に市電に乗ったが、どこまで行っても五銭均一。ならば、足袋の値段も均一にしようと思いついた。

 1912(大正1年)。自動車を使って足袋の宣伝を行うという、当時としては先進的な広告手法を取り入れた。

 これも上京して初めて自動車に乗り、広告に使うことを思いついた。兄も大賛成。2000円の大金をはたいて最新型自動車ビュイックを購入した。自動車は東京に300台、大阪に18台、九州には1台もなかった時代だ。

 兄の徳次郎は九州での運転免許所持者第1号になった。九州全土を自動車に乗って宣伝して回った。どこでも黒山の人だかりができ、「馬のない馬車がきた」と大評判になった。

 自動車の購入にはかなりの金がかかったが、宣伝効果はそれよりはるかに大きかった。

地下足袋の大ヒット

 正二郎はネーミングも考えた。「志まやたび」では古臭い。好きな言葉「旭日昇天」から「アサヒ」を思いつく。「アサヒ」関連の商標権をすべて譲り受け、1914(大正3)年、「志まやたび」から「アサヒ足袋」に改称。「20銭均一アサヒ足袋」を発売するや注文が殺到。年産60万足から一躍、200万足に生産量は増えた。正二郎がまだ25歳の時のことだ。

 この勢いに乗って、1918(大正7)年に、日本足袋株式会社(のち日本ゴム、現・アサヒシューズ)を設立、兄の徳次郎が社長、正二郎は専務に就いた。この時点で名実ともに足袋の四大メーカーの一つになった。正二郎は29歳であった。

 第一次世界大戦の反動による不況に見舞われると新しいビジネスを考えた。

《「設備を活用して、新しい進歩した事業をやるべきだ」と研究して「勤労階級の履物改良が一番世の中のためになるのではないか、という結論になった」》(前掲書)

「わらじ」だった当時に、足袋にゴム底を接着した地下足袋を考案したのである。

 1923(大正12)年、「アサヒ地下足袋」を発売する。九州の炭鉱夫に爆発的に売れたのをきっかけに、「農作業、土木作業にこれ以上便利なものはない」と口コミで評判になり大当たりした。

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