石橋正二郎 ブリヂストン創業秘話 地下足袋屋はなぜ自動車タイヤの製造を始めたのか

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「強い者が生き残るものではない」

 正二郎は、久留米にある全ての小中学校にプールを建設し贈った。郷里以外でも、東京での小学校用地の寄付や、学習院大学の校舎拡張、津田塾大学の造園など、教育環境向上のために、数々の支援を惜しまなかった。

 正二郎は晩年、理事長を務めた故郷の久留米大学で、生徒たちに繰り返しこう説いた。

「強い者が生き残るものではない。賢い者が生き延びるものでもない。唯一、生き延びることができるのは変化ができる者である」

 着物や襦袢を縫う地方の仕立屋から足袋専業に転進。地下足袋をヒットさせ、さらにゴム靴で市場に君臨した。それでも、小成に安んじることなく、世界のタイヤメーカーへと大飛躍を遂げた正二郎の言葉は含蓄に富む。

 こんなこともあった。

 石井光次郎(元衆院議長)の息子・公一郎(元ブリヂストンサイクル社長)と正二郎の娘・多摩子が結婚し、親友同士は縁戚関係になった。

 石橋正二郎は1889(明治22)年2月1日、福岡県久留米市に父・徳次郎(初代)、母・まつの次男として生まれた。

18歳で企業家の才能が開花

 家業は着物や襦袢を縫う仕立屋「志まや」。父・徳次郎は士族生まれの養子である。3歳年上の兄・重太郎(家督相続とともに2代目徳次郎を襲名)が腕白坊主だったのとは対照的に、正二郎は内向的で病弱な子供で、学校も休みがちだった。しかし、成績はずば抜けてよかった。飛び級で進み、久留米商業学校に最年少で合格した。

 神戸高商への進学を断念した正二郎は1906(明治39)年、久留米商業を卒業し、兄とともに仕立屋「志まや」を継いだ。すぐに兄が陸軍に徴兵されたため、正二郎が一人で家業を切り盛りした。

 ここで正二郎の企業家としての才能が開花した。18歳の時だ。

《当時は徒弟七、八人を朝から晩まで無給で働かせ、注文でシャツやスボン下、足袋などを作っていた。これを時代遅れと考え、一番有利な足袋にしぼった。徒弟には給料を払って労働時間も短縮し、当時としては画期的な労務管理をしたが、父からはひどくしかられた》(前掲書)。

 画期的な労務管理の手法は、徒弟制度の仕来りにそぐわなかったからだ。

 除隊した兄が販売、集金、宣伝を担当し、力を合わせて売り上げを伸ばし、正二郎が19歳の時に工場を建てるまでになった。父は大いに喜んだが1910(明治43)年、52歳で亡くなった。

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