石橋正二郎 ブリヂストン創業秘話 地下足袋屋はなぜ自動車タイヤの製造を始めたのか

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賛成した2人の人物

 ゴムの輸入商社の三井物産に意見を求めても「アメリカにおける自動車タイヤは巨大な近代設備による大量生産方式で生産されている。現在の日本の自動車市場はすこぶる小さく、アメリカのタイヤメーカーがダンピングでもすれば、国産メーカーはひとたまりもなく潰されてされてしまうだろう。やるべきではない」とやはり反対された。

 三井物産も進取の気性に、まだ富んでいなかったと見える。

「自分はアメリカのゴム化学を学ぶためアクロンの大学に長く留学していたので、タイヤの製造技術がいかに難しいものかよく知っている。しかし、日本足袋の年間利益相当分くらいの資金をあなたが研究費としてつぎ込み、100万円や200万円は捨てる覚悟があるのであれば協力しましょう」

 正二郎に国産タイヤの事業化を決断させたのは、九州帝国大学(現・九州大学)工学部応用化学科教授、君島武男・工学博士の、この一言だった。

 1928(昭和3)年の夏のことだ。

 もう一人が三井財閥の総帥で日本財界の総本山・日本工業倶楽部の理事長であった團琢磨である。

 郷里の大先輩である團の私邸を訪ねて相談した時、團は「日本は今、深刻な不況だが、自動車タイヤは将来有望だから賛成です」と激励した。

築かれた返品の山

 反対の声に包囲されていた正二郎は、二人の理解者の言葉に、いかに勇気づけられたことか。

 その頃、日本足袋は業績が好調で資金的にも余裕があった。年間利益は200万円以上あったから、100万円くらいの研究費をつぎ込むことはさほど難しくなかった。

 正二郎の心は決まった。君島博士の指導の下、技術的な確信を得た正二郎は、日本足袋の社内にタイヤ部を設置し、タイヤ製造機を輸入。自動車タイヤの試作を開始した。1930(昭和5)年4月、国産の自動車タイヤ第1号が完成した。

 1931(昭和6)年3月、ブリッヂストンタイヤ株式会社を設立し、正二郎は社長に就任した。将来、タイヤを輸出することを考えて、石橋の英語読みの「ストーン・ブリッヂ」を逆さまにして社名にした。正二郎、42歳の時である。

 売り出したタイヤの評判は最悪だった。創業後の3年間に44万本を出荷したが、「破れやすい」というクレームが続出。「破れたら取り替えます」という製造責任補償をセールストークにしたため、またたく間に10万本が返品され、1000坪の貯蔵場に返品されてきたタイヤの山が築かれた。

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