オムロン創業者の立石一真 駅の自動改札機を開発した男の「7:3の原理」

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 昨年4月に逝去したオムロンの名誉顧問で京都商工会議所前会頭の故・立石義雄の「お別れの会」が、10月20日午後1時、京都会場は国立京都国際会館イベントホール(京都市左京区)、東京会場はグランドプリンスホテル新高輪国際館パミール(東京都港区)で執り行われた(敬称略)。

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 オムロンの取締役会長の立石文雄、代表取締役社長CEOの山田義仁、京都商工会議所会頭の塚本能交の共催。喪主は立石郁雄(オムロンエフエーストア社長)だ。

 制御機器メーカー、オムロン元社長で名誉顧問の立石義雄は、新型コロナウイルス感染症のため、2020年4月21日、京都市内の病院で死去した。享年80歳。新型コロナによる著名な経済人の死亡例は、国内では初めてだった。

 義雄は4月1日に倦怠感を訴え、2日に発熱。5日に受診した医療機関で肺炎と診断され、即入院。6日のPCR検査で陽性と判定された。80歳と高齢であるうえに基礎疾患もあり、入院当初から立石の容態は重症とされていた。

 義雄は3月末、5期13年間務めた京都商工会議所の会頭を退き、ワコールホールディングスの塚本能交会長に後事を託したばかりだった。

 義雄はオムロンの創業者、立石一真(かずま)の三男だった。

 1987年、長兄の孝雄の後を継ぎ47歳で社長になる。立石電機は工場所在地の地名である京都市右京区花園の通称「御室(おむろ)」に由来するオムロンへ社名を変更したが、この社名の変更やカンパニー制の導入など社内改革に、義雄は取り組んだ。

「ベンチャーの京都」

 創業家中心の経営に限界を感じていた義雄は2003年、創業家出身者以外で初となる作田久男に社長の椅子を譲り会長に退いた。

 経営の第一線を退いた義雄は財界活動に軸足を移し、2007年、京都商工会議所の会頭に就任した。会頭時代の義雄の最も大きな功績は、京都経済センターの開設だろう。構想から十数年、19年3月、京都のまちなかの一等地に、オール京都の象徴となるセンターを開設した。経済団体や中小企業支援団体などおよそ50の機関が集まり、次世代を担う人材の育成をオール京都で取り組む場所とする。ここで「京都経済100年の計が構想される」という触れ込みだった。

 オムロンの創業者の一真は晩年、日本初のベンチャーキャピタルを創設し、日本電産の永守重信ら若い起業家の育成に力を注いだ。京都から京セラ、日本電産といった有力企業を輩出し、ベンチャーの都といわれる礎(いしずえ)を築いた。

 そして、一真の三男・義雄の悲願が、ベンチャーの都の再生だった。同センターの運営法人、京都知恵産業創造の森の理事長として、義雄は起業家育成に本格的に取り組もうとした矢先に病に斃(たお)れたのである。コロナウイルスには勝てなかった。

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