オムロン創業者の立石一真 駅の自動改札機を開発した男の「7:3の原理」

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世界初の自動改札機

 ドラッカーはこう言っている。

「立石一真氏は際立っていた。徒手空拳で企業を興し、技術において世界的リーダーになっただけでなく、その才能、人間性、博識、そしてビジョンにおいて優れていた」(湯谷昇羊『「できせん」と云うな――オムロン創業者 立石一真』新潮文庫)

 これほどの大経営者でありながら世間的には無名に近いのは、テレビ、自動車といった消費者向けの製品を作っていなかったからだろう。大衆消費財と比べればオートメーションは縁の下の力持ちだから、仕方がない面はあった。

 オムロンはオートメーション時代の必需品となった交通管制システムなどの情報システムや自動券売機、キャッシュ・ディスペンサー(CD=現金自動支払機)、オートマチック・テラー・マシン(ATM=現金自動預け払い機)を開発してきた。近年普及が著しい非接触型ICカードを使った乗車券/プリペイド・カードは得意とする分野だ。

 1960年代は、1964(昭和39)年の東京五輪開催に向けて社会全体がうねっていた。通勤地獄と呼ばれ、毎朝、駅の改札には長い行列ができ、けが人も出た。

 混雑を解消するために名乗り挙げた企業が立石電機、現在のオムロンだった。取り組むテーマは改札の自動化である。

大阪万博と自動改札

 立石電機の開発の歴史を簡単に述べておこう。1963(昭和38)年、百貨店の大食堂やレストランに食券自動販売機がお目見えした。翌年には、車を検知して混雑の度合いを量り、信号をストップの赤に切り替える、世界初の自動感応信号機を開発した。

 培ってきた磁気や光学の技術を結集して、自動改札機の開発に名乗りを上げた。

 日本初の自動改札機を、どこに設置するかが議論になった。「人類と進歩の調和」をテーマとする世界的イベントが間近に迫っていた。1970(昭和45)年の大阪万国博覧会である。タイムリミットが決まった。

 大阪万博の開催を3年後に控えた1967(昭和42)年、〈開発が進む千里丘陵に新設された阪急電鉄北千里駅に、多能式自動券売機、カード式定期券発行機、自動改札装置を組み合わせた世界で初めての「無人駅システム」を実現〉させた。

 オムロンのホームページの「創業者物語~立石一真、挑戦の90年~」に、こう誇らしげに記されている。

 もっとも、最初は乗客も戸惑ったようだ。改札機に定期券ごと入れたり、紙幣やコインを入れたり、混乱もあった。このため、立石電機の担当者や駅員たちが改札に待機して、使い方を丁寧に説明したという逸話が残っている。

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