「失言」より「実態」を見るべき 「女性活躍推進」で考えたいこと(古市憲寿)

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 舌禍事件が相次いでいる。あまりにも炎上が多すぎて、森喜朗元総理の「わきまえない女」騒動など、もはや遠い昔の出来事のようだ。

 作家の佐藤愛子さんが『九十八歳。戦いやまず日は暮れず』(小学館)で、他人が「思った」ことを安易に糾弾することの怖さを説いていた。1941年の真珠湾攻撃を「騙し討ちやないのん」と疑問を抱いた19歳の佐藤さん。電車の中でその話をすると、友人に止められた。「叱られるよ。憲兵に引っぱられるよ」と。

 98歳の佐藤さんは、時代と共に正義が変わることを知っている。だから森元総理が実感を洩らしただけで、女性蔑視と大批判を浴びたことに「釈然としない」という感想を抱く。

 確かにジェンダー平等の時代だ。表立って女性差別を肯定する人はほぼいない。たとえば企業のホームページに行けば「女性活躍」「多様性推進」の言葉が躍る。国にも女性活躍担当大臣なんてポストまである。

 だが日本の上場企業における女性役員比率はたった6.2%である(2020年7月時点)。森発言を叩いたメディアにも、女性役員はほとんどいない。衆議院議員に占める女性の割合も9.9%に留まる。この数字を街角で見せたら「もっと女性役員を増やすべきだ」という声が多数だろうし、識者なら海外の事例を出しながら日本のジェンダー平等の現状を嘆くはずだ。

 だが、女性役員の少なさを糾弾しての不買運動や、メディアを巻き込んだ大バッシングは起こっていない。少なくとも「わきまえて」発言ほどには問題視されていない。

 つまり2021年の日本の社会規範によると、女性差別発言は駄目だが、実際に女性を排除する行為は黙認される。だから企業は対外的に「女性活躍を推進します」などと言っておけばいい。お飾りでも社外取締役あたりに女性を何人か入れるだけで「女性に優しい企業」面ができてしまうのだ。

 逆じゃないかと思う。言葉はどこまでいっても言葉だ。もちろん誰かを傷つけたり、恐怖させる場合もある。だから殺害予告などは脅迫罪に問われ得る。だが殺害予告より殺人が遥かに重罪であるように、誰かの失言よりも、実際に存在する不平等を問題視すべきではないのか。

 つくづく「コミュニケーション能力」の時代なのだと感じる。ニューヨーク州のクオモ前知事は演説の上手さで世界中を欺いたわけだし、菅総理は実績があるにもかかわらず、あまりにもプレゼンが下手で短命政権に終わった。

 大企業が、表層的な「コミュニケーション能力」はあるものの、実務がこなせない新入社員を雇って困る分には構わない。だが全ての政治家に過度な「コミュニケーション能力」を求める必要はあるのか。

 時代の流れだからとジェンダー平等発言をするのは、憲兵に引っぱられるから思ったことを言わないのと大きく変わらない。誰かの失言を糾弾する労力があるなら、企業と政治にクオータ制を求めた方が建設的だ。

古市憲寿(ふるいち・のりとし)
1985(昭和60)年東京都生まれ。社会学者。慶應義塾大学SFC研究所上席所員。日本学術振興会「育志賞」受賞。若者の生態を的確に描出した『絶望の国の幸福な若者たち』で注目され、メディアでも活躍。他の著書に『誰の味方でもありません』『平成くん、さようなら』『絶対に挫折しない日本史』など。

週刊新潮 2021年9月23日号掲載

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