死刑判決で裁判長に「後悔するぞ」 工藤会トップ「野村悟被告」の素顔と意外な評判

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先代との「差」

 野村被告は1946年、北九州市の裕福な農家に末っ子として生まれた。父親は大地主だったという。

 手が付けられない不良少年だったとも言われ、10代で工藤会系暴力団の舎弟になった。賭場の経営に才能を発揮し、一晩で数億円の収益を上げたというエピソードが語り継がれている。

 母の死去で億単位の遺産が転がり込んだことや、不動産売買でも高い収益をあげたことなどから、資金力は突出していたようだ。

「暴力団の世界では、工藤会の三代目会長や四代目総裁などを歴任した溝下秀男氏(1946~2008)が、今でも高く評価されています。激しい抗争関係にあった工藤会と草野一家の一本化に尽力し、組織を盤石なものとしました。その溝下氏の後継者が野村被告だったわけですが、かなり早い段階から『先代とは“器”のレベルが全く違う』などと、不満や批判の声が組員などから漏れていました」(同・藤原氏)

 野村被告は北九州市民を“恐怖”で支配しようとしたが、そもそも工藤会でも同じ手法を使って組織の締めつけを図っていた。

工藤会は穏健化!?

「2000年、野村被告は四代目工藤会会長を継承し、翌11年に五代目工藤会総裁に就任しました。結論を先に言えば、野村被告はトップの器ではありませんでした。部下から信頼されることはなく、代わりの手段として恐怖で組を支配することしかできなかったのです。彼は『組員に舐められてはいけない』と常に考えていたのではないでしょうか」(同・藤原氏)

 一般市民を相手に正気とは思えない殺害指示を出し続けたのも、こうした被告の“引け目”が影響を与えていたのではないか──藤原氏は、こう推測する。

「死刑は当然という声は、圧倒的に多いでしょう。しかし、野村被告の心理状態を分析すると、少し哀れな気持ちにもなります。受け継いだ組織が、被告の能力を超えて大きかった。そこで虚勢を張るしかなく、無理を重ね、挙げ句の果てが死刑判決。彼の一生を、こう要約することもできるはずです」(同・藤原氏)

 まだまだ先の話とはいえ、最高裁での死刑判決や、実際の死刑執行も“折り込み済み”なのかもしれない。工藤会は今後、どうなるのだろうか。

「北九州市は太州会(本部・福岡県田川市)が抑えています。工藤会が弱体化したとしても、いわゆる“権力の空白地”が生まれる可能性は低いでしょう。攻め込んでも返り討ちにあうだけですから、山口組も静観の構えだと思います。一方の工藤会ですが、野村被告の暴力路線についていけない組員や幹部も少なくなかった。今後は穏健派が力を持つのではないでしょうか。要するに地域住民と敵対することは避けるというわけですが、それを福岡県民がどう判断するか、今後の焦点の1つでしょう」(同・藤原氏)

デイリー新潮取材班

2021年8月28日掲載

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