「オレを戦犯にしろ」 終戦後「東久邇宮内閣」を生んだ「石原莞爾」最期の日々

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特高も教えを請う

 8月16日、参内を終えた東久邇宮のもと、書記官長の緒方と首相秘書官の太田を中心に組閣が始まった。二人は阿南陸相の後任に石原を推し、同日午後3時頃、隣家の家主に電話を入れて呼び出す。太田は就任を要請するが、石原は「膀胱ガンの持病でつとまらない」と謝絶。あわせて閣僚人事案を請う太田に、石原はこう告げている。

〈外相には吉田茂、蔵相は津島留任、運輸は小日山直登、内務大臣は三上卓(五・一五事件の首謀者)。内閣顧問に朝日の常務鈴木文四郎、キリスト教徒の賀川豊彦、同盟通信の松本重治、作家の大佛次郎らを〉

 ちょうどこの日の午後、京都第16師団長時代の部下だった久保友雄が石原を訪ねていた。電話の呼び出しから戻ってきた石原の様子を、久保は後年『敗戦時の思い出』という手記でこう記している。

〈東久邇宮内閣に入閣の話だったが、お断わりしてきた、と例によって淡々とした口ぶりだった〉

 また吉住が敗戦を伝えに来た翌日の14日朝、今度は山形県警察部特高課長の堀田政孝が石原を訪ねている。

 堀田は同年春、内務省より「石原逮捕」を命じられて県の特高課長として赴任し、4カ月が過ぎていた。本人の手記『木乃伊(みいら)取りが木乃伊に』では、すでに11日夜には無条件降伏決定の電報が県警に届いており、警察部長から、

〈近所には海軍の特攻隊基地や陸軍部隊がいる。これらが、石原サンを取りまいて蹶起でもしたら大変だ〉

 と言われ、夜中に車で鶴岡へ向かったとある。ところが、カスリの浴衣で現れた石原に、

〈戦さに敗けたんだろう〉

 と先手を打たれてしまう。そこで堀田が敗戦後の日本がとるべき処置と「見透し」を訊くと、石原はこう答えたという。

〈国体護持の絶対肝要なこと、精神力で立ち上るべきこと、パンパンや占領で一応事態は混乱するであろうこと、併し悲観するには及ばぬ、その敗戦のドン底から立ち上ることによって新日本が生れること、米ソは必ず衝突すること〉

 あまりに明快な説明に感心した堀田は、この内容をつぶさに報告。本省はガリ版刷りで全国の特高に配布した。手記には、こうある。

〈このガリ版刷りで、特高関係は勿論全国府県当局が落着きを得たといつても過言ではないでしょう〉

陛下に望まれても

 一方、石原に陸相就任を断わられた東久邇宮は8月19日、内閣参与の田村と石原の盟友・木村武雄を鶴岡に遣わし、説得を試みた。急いだ理由は昭和天皇が、

〈石原莞爾を内閣顧問に〉(『木戸幸一日記』)と望まれたからである。田村は、

〈東久邇宮さまがお召しです。(副総理格で無任所大臣に就いた)近衛(文麿)さんも会いたがっているということです〉

 と懇願するのだが、石原は近衛の名を聞いた途端、顔色を変えた。近衛には37年夏に石原が設定した蒋介石との和睦会談を、さらに41年にはルーズベルトとのハワイ会談をそれぞれ直前でキャンセルされるなど2度にわたって裏切られており、大きな不信感を抱いていたのだ。

 石原は毒気を含んで、こう口にした。

〈人にものを聞きたいというのであれば、聞きたい方が来るのが道というものだ。近衛は家柄かも知れないが、国事の相談には階級はない。その上こちらは病いでもあり、年齢から言えば私が先輩である。(中略)しかし殿下(東久邇宮)に対しては自ら臣子の道があり、参らねばならぬと思っている。何分にもこの状態なので御無礼をしている〉

 これを受け、さっそく東京までの切符を手配しようとした田村をよそに、

〈わしも敗戦日本の一国民だ。郵便車に藁を敷いてもらい座って行こう〉

 結局、石原が運輸相に推薦した小日山直登の計らいで2等車に乗って上京。前年9月に喧嘩別れした東久邇宮と8月23日朝、首相官邸で対面した。

 だが、今度は宮が石原に顧問就任を断わられてしまう。

 再び『東久邇日記』によれば、

〈「(略)官僚の息がかかることは絶対に避ける決心で、純民間人として働きたいから、内閣顧問のような地位は、真っ平ご免である」と、きっぱり断わった〉

 とあり、最後は東久邇宮から石原に「大不忠の臣だ」と投げ返している。

 この在京中、石原は「読売報知」「毎日新聞」のインタビューを受けている。読売報知は8月28日付で1面の半分を割き、13段の大囲みで大々的に報道。まず、敗戦の原因を問われた石原は、大略以下のように答えている。

〈最大の原因は国民道徳の驚くべき低下。道義、知性、勇気がなかったためだ。敗因の根本的探求を軍事・外交・科学・政治・経済・産業・道義などあらゆる角度から断行すべきである〉

 また、国民の今後の指標を聞かれると、

〈先ず総懺悔すること。大都市生活を諦め、この際速やかに大都会を解体する。そして徹底した簡素生活を断行する。大体今日の大都市は資本主義の親玉アメリカの模倣であり、自由主義経済と共に膨れ上がって発達したものだ。皮肉にも本家アメリカの爆撃で大体潰滅した。今後は幕末当時の領土の上に、その頃の二倍以上の民族が生きてゆかねばならぬ〉

 戦後政治の動向については、

〈首相宮殿下には、国民に対して建設的な言論結社の自由を要望している。官僚専制の打倒は目下の急務。これから世界一の民主主義国家になるべきだ〉

 さらには、自らが対峙してきた特高警察の廃止を訴えつつ、

〈政治憲兵も同然。思想、信仰は元来官憲が取締るべきではない。これは国民自身の取締によるべきだ。かかることの出来ぬ民族は自主独立なしえない〉

 そう喝破していたのだ。

 かように時代の転換期を“プロデュース”しながらも、石原の膀胱ガンは悪化、46年2月末には東京・飯田橋の逓信病院に入院・手術する。同年8月の退院まで約6カ月を過ごす間に、堀を隔てた市ヶ谷台の陸軍省大講堂では東京裁判が始まった。石原の部屋にも、のべ13人の検事や法務官が取調べにやってきた。

 石原は当初、29人の戦犯に名を連ねており、最初の尋問に現れたのは第12回執行委員会前日の3月13日、米軍のホナディ法務官だった。その後、4月8日の参与検事会議で真崎甚三郎、田村浩とともに戦犯から除外されたものの、引き続き板垣征四郎の証人として尋問を強いられている。

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