「オレを戦犯にしろ」 終戦後「東久邇宮内閣」を生んだ「石原莞爾」最期の日々

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 関東軍作戦参謀として満洲事変を引き起こす一方、東条英機との確執で現役から退かされた石原莞爾。終戦間際にはいち早く東久邇宮内閣成立を画策し、戦犯から外された東京裁判では、尋問で米側を一喝する気概も見せた。作家の早瀬利之氏が、晩年の石原の実像に迫る。

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『世界最終戦論』で知られる石原は、終戦を郷里の山形県鶴岡で迎えた。満洲事変の後、参謀本部時代には中国戦線の不拡大方針を唱え、1937年9月には参謀副長として関東軍へ左遷される。が、上官である参謀長の東条とはことごとく対立した。40年7月には、第2次近衛内閣で陸相に就いた東条が進める「北守南進」に公然と反対し、太平洋戦争開戦前の41年3月、石原は予備役へと追いやられる。まもなく職を得た立命館大学も、東条の圧力により同年秋に辞職。以後は鶴岡で借家住まい、向かいの家から毎日、特別高等警察(特高)に監視されながらも、わずか月300円の恩給生活を送っていた。

 日本の敗戦を知らされたのは、玉音放送2日前の45年8月13日朝。千葉聯隊区戦車聯隊長の吉住菊治少佐からの報告だった。石原と同郷の吉住はその前日、市ヶ谷台の大本営で「ポツダム宣言受諾」を洩れ聞くと、直ちに夜行列車を乗り継ぎ、石原のもとへ。報告ののち、今後の指示を仰いでいる。

 後述するように石原は、前年9月、東久邇宮稔彦陸軍大将と「喧嘩別れ」していた。が、吉住の報に接し、時を得たとばかりに、

〈直ちに東久邇宮内閣をつくるよう、大本営に伝令してくれ〉

 そう告げている。吉住の手記『石原莞爾の遺言』の中には、石原のメッセージとして次の記述がある。

〈この敗戦は決して落胆するに及ばぬ。何となれば数年後に人類は、世界の最終戦によつて、始めて戦争を脱皮し、永久平和が実現する。敗戦により、軍備をすてた日本は、今こそ始めて世界に先んじて、人類次代の文化を創造し、全世界の模範となるべき大維新を断行する運命を与えられたのだ。しかしこの世界の大勢にたいする見透しと、新日本の向うべき目標をハツキリつかみ得ない者、特に血気の連中は、終戦のお詔勅が降るとドコまでも竹槍式の玉砕を叫んで反乱を起すだろうが、お前はその時、オレの世界最終戦の理論を説き、反乱軍の鎮撫に命をささげよ。それが軍人としての最後のお奉公だ〉(原文ママ)

 石原はそう諭しながら、

〈アメリカとロシアとの決戦には、必ず我国民が強制的に狩り出されるから、国民は全力をあげて断じて反対せよ〉(同、原文ママ)

 とも口にしていた。

 吉住は東京へ引き返すと、直ちに大本営に駆け込んで石原の構想を報告。作戦課長・服部卓四郎から石原の「子分」である参謀次長・河辺虎四郎に伝わったとみられ、河辺から木戸幸一内大臣の耳に入ると、木戸に代わり秘書官長の松平康昌が14日午後、麻布の家を空襲で爆撃され川崎の別荘に逃れていた東久邇宮と面談。和平交渉の経過やポツダム宣言受諾が御前会議で昭和天皇の聖断により決定された状況を説明したのち、こう伝えている。

〈木戸内大臣の考えでは鈴木(注・貫太郎)首相は近く総辞職をするかも知れない。その後任として、軍部を抑えて行ける自信のある人が重臣の中にはないから、この難局にあたって総理の大任を受ける人はないだろう。その時には、東久邇宮に総理になってもらわなければならないかも知れない〉(『東久邇日記 日本激動期の秘録』)

 ところが東久邇宮は、

〈私は政治家ではない。また、皇族で軍人という関係で、政治に干与することを禁じられていたので、政治に関してはなんらの経験もない。私は、皇族は政治に干与しない方がよいと考えている〉(同)

 と、いったんは固辞。それでも、石原の盟友で陸大同期の阿南惟幾陸相が自決したと聞かされると、心境は一変した。15日夜、再び松平が天皇の内意を伝えに川崎の別荘を訪れた。

〈阿南陸軍大臣が自決した結果、鈴木首相は本日内閣総辞職を決し、各大臣の辞表を陛下に奉呈した。(中略)天皇陛下は時局を非常に心配され、陛下のご内意は、鈴木内閣の後継を東久邇宮になさるお考えである〉(同)

 これに宮は、

〈この危機を突破しようという人がなく、また一般情勢がそんなに危険ならば考え直しましょう〉(同)

 そう応諾している。

「大不忠の臣だ」と

 東久邇宮は16日に参内し、組閣の大命を拝した。緒方竹虎を書記官長(官房長官)に、朝日新聞論説委員だった太田照彦を首相秘書官とし、組閣本部を赤坂離宮に設置。こうして石原の念願だった「宮様内閣」は、ようやく実現をみたのである。

 事ここに至るまで“生みの親”たる石原は、無念の日々を重ねてきた。実は、まさしくこれが「三度目の正直」だったのだ。

 最初は1936年、二・二六事件の直後である。当時、陸軍では皇道派と統制派とが対立、これを一つにまとめられるのは東久邇宮中将しかいないと考えた石原は、反乱軍に東久邇宮首相案を示すが反対されてしまい、事件が収束すると川島義之陸相に「進退伺い」を提出、高田馬場の自宅に引き籠っている。

 2度目は44年9月26日。ドテラに下駄履きで鶴岡から上京した石原を『東久邇日記』はこう記している。

〈午前九時、石原莞爾来たる。石原の話、次のごとし。「現在の日本は軍人、官吏の横暴、腐敗その極に達し、中央はもちろん、地方の末端に行くほどはなはだしく(中略)大東亜戦争解決の第一歩は、重慶(注・蒋介石)との和平にある。これがためには、小磯内閣ではダメである。故に小磯内閣を倒し、東久邇宮内閣を組織し、三笠宮を支那派遣総軍司令官として、重慶と和平しなければならない。そうしなければ日本は滅亡するだろう」〉

 石原はその3日前、前出の太田や、のちに東久邇宮内閣で内閣参与に就く朝日新聞の田村真作と協議。小磯国昭を副首相にして宮を説得する肚を固め、26日の面談に臨んでいた。日記によると石原は、

〈あなたは陛下に、小磯をやめさせて、あなたが内閣を組織するよう申し上げなさい〉

 と、いきなり直球を投げている。驚いた宮は、

〈私はそんなヒットラーやムッソリーニみたいなことはできない〉

 そう返したのだが、石原はなおも、

〈いま国家が滅亡するかどうかという時に、皇族は重大な責任がある。もしあなたがいやというなら、あなたは日本はじまって以来の大不忠の臣である〉

 などと畳みかける。

〈たとえ大不忠の臣となっても、私はヒットラーのようなことはできない〉

 重ねて拒む宮。二人は33年、仙台で「東久邇宮第2師団長」「石原歩兵第4連隊長」という上官と部下という間柄であったのだが、固辞し続ける宮に石原はしびれを切らし、

〈それでは、私はもう一生あなたのような人にはお目にかからない〉

 そう言い捨てて辞去。東久邇宮は同日の日記に、

〈私に向って「不忠の臣」などといったのは、石原ぐらいのものである〉

 と記している。そうした過程をへて、石原の宿願は成就したわけである。

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