「オレを戦犯にしろ」 終戦後「東久邇宮内閣」を生んだ「石原莞爾」最期の日々

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「オレを戦犯にしろ」

 4月20日、米国の検事が突然、病室のドアを蹴って現れた。傍らには日系の通訳官。ベッドに横たわる石原に、

「証人尋問を開始する。お前は石原か?」

 そう質してきたので、

「ここには石原は一人しかいない」

 と惚(とぼ)けながら、

「オレは戦犯だ。なぜ逮捕しないか。裁判になったら何もかもぶちまけてやる。いいか。広島と長崎に原爆を落としたトルーマンこそ世界一級の戦犯だ!」

 などと、激しい剣幕で迫った。病人相手の尋問は容赦なく、板垣征四郎と橋本欣五郎との関係を訊いた検事は、石原が知らないと言うと、

「また明日くる。二人の関係をよく思い出して、明日返事できるようにしておけ」

 そう言い残し、ドアを開けて去ろうとした。すると、石原はベッドの中から一喝、

「待て! 今の話はなんだ! 知らないものを思い出せとはなんだ!」

 大声で怒鳴り上げると、驚いた検事は小さく謝って去って行ったという。

 そして翌日、取調べは軍人の法務官に替わり、出し抜けに石原は、

「私が参謀総長だったら日本は絶対に敗けなかった。君は敗戦国だから我々の膝下にも及びつかないだろう」

 と“先制攻撃”に出た。

「東条と意見が対立していた?」

 法務官がそう尋ねると石原は、

「違う。意見のない者と意見の対立などない」

 と、一言のもとに切り捨て、挙句、

「いいか、君のところのペリーこそ戦争犯罪人だ。あの世からペリーを連れてこい!」

 さらに法務官が、

「今度の戦犯の中で一体誰が第一級と思われるか?」

 と質すと、石原は声高に、

「それはトルーマンだ!」

 そう言い放ち、唖然とする法務官に石原は、見舞い客から貰った一枚のビラを取り出して見せながら、

「ここに、米国大統領就任に臨み、日本国民に告ぐとある。ルーズベルトが死んだ直後だから5月頃だ。これはアメリカ軍が飛行機から撒いた物だ。ビラには、もし日本国民が銃後において軍人と共に戦争に協力するならば、老人、子供、婦女子を問わず全部爆殺する、とトルーマンの名で書いている。知っているか」

 と突きつけた。首をかしげる法務官に、

「これは国際法違反だ。立派な証拠だ。B29で非戦闘員を爆撃し、広島と長崎に原爆を落としたではないか。オレは東京裁判で、これを話してやるから、オレを戦犯にしろ」

 そう一気にまくし立てたのである――。

 以上は、石原の主宰した「東亜連盟」東北婦人部長で、当時看病していた渕上千津から直に聞き取ったやり取りである。

 石原はその後、郷里に戻って療養につとめながらも、47年5月の東京裁判酒田臨時法廷に証人として出廷。49年春には肺炎を患い、病状はいっそう悪化。同年8月15日、60年の生涯を閉じている。

 没後72年、石原が嘆いた「国民道徳の低下」は、果たしていま改善されているのだろうか。

早瀬利之(はやせとしゆき)
作家。昭和15年、長崎県生まれ。昭和38年、鹿児島大卒。著書に『タイガー・モリと呼ばれた男』『石原莞爾 満州ふたたび』『敗戦、されど生きよ』などがある。

週刊新潮 2021年8月12・19日号掲載

特集「終戦『東久邇宮内閣』を生んだ“影の首相” 『石原莞爾』最期の日々」より

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