元海上保安官「尖閣諸島に行政標識を」 石垣市長は設置を決断するも政府は及び腰

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島に伝わる「感謝状」

 古来、尖閣諸島が日本の領土であることを裏付ける資料は数多く、国の内外を問わず見つかっています。東京・千代田区には、それらが整理された「領土・主権展示館」がありますが、実はこの石垣島にも貴重な資料が残されているんです。

 石垣市立八重山博物館に所蔵されている「尖閣列島遭難救護の感謝状」がそれで、中国政府が尖閣諸島を日本の領土と認めていたことを示すものです。大正8年(1919年)に尖閣諸島の沖合で遭難した福建省出身の31人の漁師たちが魚釣島に漂着し、島民たちに救助されたことがありました。その時のお礼として、中華民国から派遣された長崎の領事が島民に感謝状を贈っていた。原本が2通発見されて、市の指定文化財になっているんです。

〈村民の玉代勢孫伴(たまよせそんはん)氏に贈られた感謝状には、以下のような文言が遺されている。

感謝状

中華民国八年冬福建省恵安県漁民郭合順等三十一人遭風遇難飄泊至日本帝国沖縄県八重山郡尖閣列島内和洋島承

日本帝国八重山郡石垣村雇玉代勢孫伴君熱心救護使得生還故国洵属救災恤鄰当仁不譲深堪感佩特贈斯状以表謝忱

中華民国駐長崎領事馮冕

中華民国九年五月二十日

(原文は旧字)

 以下は本文の翻訳だ。

 中華民国8年冬、福建省恵安県の漁民である郭合順ら31人が嵐で遭難し、漂流して日本帝国沖縄県八重山郡尖閣列島内の和洋島に着いた。

 日本帝国八重山郡石垣村職員の玉代勢孫伴君は熱心に救護し、故国に生還させてくれた。被災者を救い、隣人を憐れむ人道的な振る舞いであり、ここに深く感謝し、この書状をもって感謝の意を表すこととする。

 もう一通は村長の豊川善佐に宛てたもので、肩書の「村雇」が「村長」とある以外はまったく同じ文面だ。〉

 一読すれば分かりますが、〈日本帝国沖縄県八重山郡尖閣列島〉と明記されています。〈和洋島〉は魚釣島のことで、〈長崎領事〉は中華民国政府の外交官。国を代表する政府要人が、尖閣諸島は日本の領土と認識していたことを示す証拠が伝わっているんですよ。

 感謝状が贈られた豊川善佐と玉代勢孫伴の子孫や親族は、いまも石垣島やその周辺に住んでいます。つまり、100年以上も昔から、尖閣諸島は石垣島などの島民たちと密接な関係にあったわけです。

〈安田氏が海上保安庁に入庁した昭和47年(1972年)は、沖縄が本土復帰を果たした歴史的な年だ。記念日となった5月15日には、那覇市に第11管区海上保安本部が開設された。〉

 当時は琉球警察の中に海上警察があって、「ちとせ」という120トンの小さい警備艇が1隻あっただけ。11管区の開設の際は、とにかく乗船経験のある人や船に関する技術を持っている人をかき集めていました。多くは内地から転勤してきた海上保安官でしたが、中には民間企業からの転職組もいましたね。海上保安学校での研修を終えて実務に就くと、海難救助や密漁の取り締まりといった任務が待っていました。船の数も少なく、石垣海上保安部に配備されていた巡視船は1~2隻。手が足りない時は、沖縄本島から応援を呼んで対応していました。

 当初は密漁対策が多かったのですが、徐々に増えたのが領海警備。尖閣諸島の近くまで出向くようになったのは、国連が東シナ海に石油が埋蔵されている可能性があると発表した後でした。それまでほとんど見かけなかった、中国と台湾の船が増えてきたのです。

〈昭和44年(1969年)5月、国連のアジア沿海鉱物資源共同探査調整委員会(CCOP)は、「東シナ海とその近辺の浅海域には、ペルシャ湾地域に匹敵するほどの石油や天然ガスが存在する可能性が高い」との報告書を発表した。その後、昭和46年(1971年)になると、中国と台湾が尖閣諸島の領有権を公式に主張し始め、現在に至っている。〉

統制が取れた漁船団

 ただ、いまと違ってやって来るのは漁船ばかり。尖閣海域に出る巡視船は基本的に1隻しかありませんでしたが、当時の中国人や台湾人は聞き分けが良くてね。退去を命じると、素直に従って出て行ったものです。

 ところが国連の発表から1~2年が過ぎたころから、それまでの何倍もの規模の漁船が押し寄せて来るようになりました。多い時は100隻から200隻という規模です。当時はEEZ(排他的経済水域)という概念がありませんでした。だから私たちは、とにかく彼らを12海里(約22キロ)内の領海に侵入させないように、必死で対応に当たっていました。

〈国連海洋法条約が領土から200海里(約370キロ)までをEEZと定めたのは平成6年(1994年)だ。それまでは世界中の漁師に領海外での自由な漁が認められていた。〉

 本来、漁船は魚を求めて移動しますから、動きはバラバラです。ところが大挙して押し寄せる漁船団は統制が取れた組織的な動きをしていました。例えば、海域に100隻の漁船が到着したとして、そのうちの50隻が東側から魚釣島の領海に入る動きを見せたとします。当然、我々はそれを阻止するべく移動します。すると、残った50隻は、その裏をかくように手薄になった北や南、或いは西側の海域から侵入してくる。

 船団が何らかの指示を受けていることは明らかでしたから、水平線の向こうには中国共産党と人民解放軍が控えていたのでしょう。船団の目的は漁ではなく、あくまで領海への侵入でしたから、幾つかの漁船の中には、漁民を装った海上民兵もいたはずです。

 そもそも、あの国は中国共産党による独裁国家ですから、漁師は「行くな」と言われれば、尖閣周辺での密漁どころか出漁すらできません。それが、私が退官を目前に控えた平成12年(2000年)前後になると、漁船の代わりに政治団体などの船が来るようになりました。

 香港から出港してきた「保釣運動」を掲げる民族活動家が魚釣島に上陸しようと海に飛び込んで死亡したり、台湾と香港から来た41隻の小型船が領海侵犯して4人の活動家が魚釣島に上陸したのもこの頃です。それがいまや、海警局という中国海軍の隷下にある公船に取って代わり、領海侵犯を繰り返し、時には数十時間も領海内に居座るようになってしまいました。

 さらに最近は、海警船の中に電光掲示板(停船命令等表示装置)を装備している船も目につきます。あれは海保の装備を真似たものですが、日本の漁船を追いかけ回した上で「中国の領海から出ていけ」と言うんですから言語道断です。

 厄介なのは海洋調査船も同様で、いまでも日本のEEZや領海で、勝手に海底の地形や地質などの調査をしています。海保が無線や拡声器などで退去を求めても完全に無視。しかも、調査を終えて帰る際には無線を通じて日本語で「バカヤロウ」と捨て台詞を残していくこともあるそうです。彼らは心底、日本を舐め切っているんですよ。

 一方の日本政府は壊れたラジオのように、「尖閣諸島は我が国固有の領土」と繰り返すばかり。ここまで中国を増長させたのは、彼らの無法を見過ごし続け、一度も現実的な対応を取らない政府自身にあることは言うまでもありません。

事なかれ主義のツケ

〈安田氏の主張は、かねてから行政標識の設置を推進する、石垣市の中山義隆市長(54)の取り組みを後押しするものだ。その中山市長に、改めて見解を聞いた。〉

 この1~2年は中国による圧力が増す一方。他国が領有を主張する日本の領土の中では、北方四島と竹島という二つの領土がそれぞれロシアと韓国に実効支配されており、日本の施政下にあるのは尖閣諸島だけです。島を巡る事態は切迫していますが、市としては日本固有の領土であることを国内外に発信する意味合いも含め、字名の変更に伴う行政標識の設置を決断したところです。北小島と南小島の標識が逆に設置されているという指摘もありますので、それが事実なら、両島の標識を正しいものに改める機会にもなります。

〈石垣市では昨年12月から、尖閣諸島に関する資料の収集や情報発信の資金を募るため、ふるさと納税制度を利用して寄附を呼びかけてきた。すでに6千万円以上が集まっており、その一部は標識の製作費に充てられる。〉

 お陰さまで、全国の約1500人からご寄附を頂きました。励ましのメッセージも添えられており、「何とか島を守ってほしい」「標柱を設置するために使ってほしい」という声もありました。それなのに……。

〈市は8月にも政府に上陸許可を申請する予定だ。ところが、この動きを察知した加藤勝信官房長官は、3月15日の会見で「政府としては尖閣諸島と周辺海域の安定的な維持、管理のため、原則として政府関係者以外の何人も上陸を認めないとの方針を取っている」「必要性や尖閣諸島を巡る状況を総合的に勘案して判断する」と発言。従来通りの見解を繰り返した。

 もっとも加藤官房長官は、7月14日の会見では中国海警局の公船4隻による尖閣諸島周辺の領海侵入について問われると、「中国に対しては冷静かつ毅然と対応していく」と、一転して強い口調で述べている。

 上辺だけの言葉でないことを願いたい。そこで本誌(「週刊新潮」)は石垣市が尖閣諸島への上陸申請をする際の窓口となる、総務省自治行政局市町村課に、市の申請を認めるのかどうかを尋ねたところ、「まだ申請が届いていないので何とも言えない。申請があった場合は、内閣官房の担当部局と総合的な調整の上で判断することになる」と回答した。〉

 平成24年(2012年)9月に民主党政権が魚釣島、北小島、南小島の3島を地権者から購入して国有化しましたね。ところがその際、上陸して新たな灯台を設置するとか、避難港を整備するなどの措置を一切許可しなかったんです。島の実態調査すら見送られる有様で、中国の圧力に屈したのか、野田政権は国有化という形だけで済ませてしまった。

 私は、事なかれ主義に終始した、あの対応のツケが回ってきたと感じています。翻っていま、また同じように何もしなかったら、そのツケはどのくらい大きくなって何年先に回ってくるのか。それを思えば、私たちはいまこそ為すべきことをなさねばなりません。

〈中山市長とともに市議会で行政標識設置の必要性を訴えるのは、八重山防衛協会事務局長を務める石垣市議の砥板(といた)芳行氏(50)だ。その砥板氏は次のように語る。〉

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