鳥類学者だからって鳥が好きだと思うなよ 絶海の無人島で命がけのゲームが始まる

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「子ども科学電話相談」で大人気のバード川上先生こと、鳥類学者・川上和人さん。今年はオリンピックのため、夏休み子ども科学電話相談の放送はない。しかし、がっかりしているあなたに朗報だ。累計16万部を突破した川上さんの鳥類学者シリーズ最新刊『鳥類学は、あなたのお役に立てますか?』から、とっておきの章を全文ご紹介しよう。絶海の孤島。迫る巨大台風。そしてサメ! 研究は今日も命がけ? 今日お届けするのは「南硫黄島・逆襲再訪篇」。ハエ天国の無人島で不覚にもハエを食べてしまった川上さんは10年かけて対抗策を用意したが……。先生、無事のご帰還を祈念申し上げます!

あなたはハエを食べたことがありますか?

 ハエを食べたことがあるだろうか。私は、ある。

 その島の名は南硫黄島。小笠原諸島の南部に位置する無人島だ。島への立ち入りは厳しく制限されており、原生の自然が残されている。10年ぶりの調査のため、私は山頂を訪れた。

 人の影響を知らないこの島では、絶滅を免れた海鳥が所狭しと繁殖する。多数の鳥がいれば、相応の死体が生産される。カラスもネズミも魍魎もいない島では、ハエとカニが分解者の役割を果たす。特にハエはハエ算的に数を増やし、夜にもなると山頂がハエの雲に包まれ、大気の構成割合は窒素8割、ハエ2割に達する。

 おかげさまで、呼吸のたびに多数のハエが口内に侵入する。しかし私は夜間調査をしなくてはならない。10年前のまだ未熟だった私はこれを防ぐ術を知らず、一呼吸ごとに強烈な不快感が口腔と海馬に刻み込まれた。このトラウマを払拭するため、10年かけて対抗策を用意してきた。

 口を閉じ鼻呼吸に転じるのだ。鼻孔は口に比べて小さく、ハエの侵入は最小限に抑えられるだろう。ハエ天国恐るるに足らず。天の岩戸を前に狼狽(うろた)えるハエどもの姿が眼に浮かぶわ!……しかし、現実は厳しかった。

 ハァー、クショッ!

 一つ、新しいことを学んだ。ハエとコショウは同じ成分でできている。これをハエくしゃみ反射と名付けよう。くしゃみをしたい時はぜひ試すとよい。口呼吸と同等の吸気を取り入れると、ハエが溶けた空気が容赦ない勢いで鼻孔を刺激する。口なら吐き出せるが鼻ではそうはいかず、不快感は倍増だ。思わず深呼吸をして10年前と同じ轍を踏み、結局被害が鼻まで広がっただけであった。

寝返りを打ったらサヨウナラ

 この絶海の孤島は周囲を崖で囲まれており、有史以来人間の干渉を拒んでいる。奇跡的に残された原生環境に、立ち入り制限は必須の策だ。

 その一方で、世界自然遺産に指定されている小笠原諸島の価値を明らかにすることも研究者に課せられた使命だ。保全と研究のバランスから、この島では10年ごとの総合調査が計画されている。前回調査から10年を経た2017年、東京都と日本放送協会、首都大学東京が共同で調査隊を編成し、私は鳥類調査の担当者として参加した。

 外来生物対策を施した荷物を背負い、調査隊はこの島にアタックした。半径約1キロメール、標高約1kmの島は、急傾斜と猛傾斜でできている。事前にルート工作班が設置したフィックスロープづたいに、傾斜60度の崩落地を登る。この島の低標高地には乾燥した崖地と絶望しかない。しかし標高500mを超えると雲霧帯が形成され、豊かな森林が展開される。そこが調査地だ。

 まずは幕営場所となる標高500mのコルを目指して崩落地を登る。コルとは尾根の鞍部(あんぶ)のことだ。登攀(とうはん)ルートは不安定な傾斜地なので、人が歩けば落石が生じる。原因は人間だけではない。

「岩を落としたのは私じゃありません。確かに、カニが岩下の砂を掘っていたんです。やったのはカニなんです!」

 甲殻類調査担当がそう語った。この島には陸生のカクレイワガニがそこら中を歩き回り、サルカニ合戦の恨みを晴らすべく暗躍している。時には金星人の頭ほどの、時には火星人の頭ほどの大きさの岩が落ちてくる。こういう時に焦ってはいけない。落石は周囲の岩にぶつかり軌道を変えながら進む。冷静に軌跡を読み、動きを予測し、牛若丸のごとくに岩を躱(かわ)すのである。

「ラーク! ラーック!」

 進行方向から声がする。どうやら落石があったようだ。後方に注意喚起するためラクと叫ぶ。少し巻き舌で発音すれば「ロック」っぽく聞こえるので、外国人にも通じるらしい。

 ヒラリ。ヒュンッ。キアヌ・リーブスの鼻先を残像を残しながら岩がかすめる。小学生時代にやり込んだドンキーコングが役立つ時が来たようだ。

 そうこうするうちにコルに到着する。10年前には低木が茂り、狭いながらも平らな場所が確保できた。しかし眼前にそんな場所はない。10年の間に、尾根の両側が土砂崩れを起こし、アーメン型の拳の上が、イタダキマス状になっている。両側が削れた尾根は、ブレイブ・メン・ロードのごとき細さだ。

 人間は不思議なもので、予定が狂っても事前の計画通りに動こうとする。脳が予定通りと錯覚し、心が落ち着くのかもしれない。この錯覚から、私は奈落を両脇に従えた細尾根の上に寝袋を置いてしまった。ルールは一つ、寝返り打ったらサヨウナラ。命がけのゲームの第二ステージが人知れず始まる。

360度に展開された青空

 緊張の一晩を過ごした私は、疲れの漲(みなぎ)る体で山頂を目指す。試合に勝って勝負に負けたとはこのことか。

 このルート沿いの風景もまた、記憶と異なる。10年前には草地と裸地が混じる歩きやすい開放地だった。しかし、そこは胸高に迫るブッシュで覆われていた。ルート自体は同じなのに、マッドマックスとマッドマックス2ぐらいの違いがある。以前見た開放地は、遷移の途中の一時的な環境だったのだ。

 この島は1982年にも調査が行われた。当時の隊員は林内を歩いて山頂に至ったと証言していた。2007年に開放地を歩いた私は、異なるルートを通ったのかと思っていた。しかし、どうやらそうではなさそうだ。以前の森林地帯が、2007年の直前に土砂崩れを起こし裸地となり、10年をかけて藪が育ち我々を出迎えたのだ。

 環境の変化に思いを馳せながら、私たちは再び山頂を踏んだ。隊員たちは狭い山頂を覆うススキにダイブして、360度に展開された青空を仰ぎ、心地よい疲労感に身を任せた。しかし、そんな中で一人の若い登山家がそわそわしている。

「お前も疲れろよ!」

 ルート工作の時、隊員の一人が彼にそう叫んだそうだ。重い荷物を担ぎブッシュを切り開きながら、一向に疲れようとしない体力過多の登山家に向けられた魂の叫びだ。体力に余裕のある彼は、山頂を通過して島の反対側に新たなルートを開拓して行く。

 未踏地の調査も今回のミッションだ。山頂の向こうはその候補地である。彼の前に道はなく、彼の後ろに道はできる。北に向かう緩斜面を下り、展望が開けた斜面に広がっていたのは、木生シダの海にガクアジサイの花が浮かぶ独特の風景である。

 亜熱帯の小笠原諸島では、背の高い木生シダ群落は珍しくない。しかし、温帯に分布するアジサイが混じる風景はとてもユニークだ。小笠原最高標高を誇るこの島では、山頂部に冷涼な環境が生まれ、アジサイが自生している。ここは亜熱帯と温帯をつなぐ島なのだ。

海鳥が顔の上で休息を取るのは日常茶飯事

 この島で繁殖する海鳥の多くはミズナギドリ類とウミツバメ類で、昼間は海で採食し、夜になると島の営巣地に帰ってくる。

 太陽が海に沈むと、あちこちの方角から黒い影が集まり、繁殖地にぼたぼたと落ちてくる。海鳥の長い翼は海上での滑空に高性能を発揮する反面、小回りがきかず、地上に軟着陸できない。このため、繁殖地では雨のように海鳥が降りそそぐのだ。

 一般に海鳥は海岸沿いに生息する。しかし、南硫黄島では島全体に海鳥が営巣する。そして山頂部一帯は、世界で唯一のクロウミツバメの繁殖地となっている。広い宇宙の中で、この鳥の調査はここでしかできない。口や鼻に侵入するハエは不愉快だが、休む暇はない。縦横無尽に空から降る鳥をキャッチし、足環をつけ放鳥する。ゲームウオッチでシェフをやり込んだ本領が発揮され、過去にこの島では見つかっていなかったオーストンウミツバメの繁殖も発見できた。

 海鳥の饗宴は夜を徹して続く。彼らは時には草むらに絡まり、時には昆虫捕獲用のバケツ型トラップに突っ込んでひっくり返し、なぜか私が昆虫調査班に平謝りする。テントの中からは調査員の悲鳴が響く。隙間から忍び込んだ海鳥が顔の上で休息を取るのは日常茶飯事だ。ついでに彼らは、人間に驚くと吐き戻しをする。消化管内で熟成された魚介類の破壊力は経験したものにしかわからない。ナンマンダブ、ナンマンダブ。

 しかし、それも一時的なものだ。ドラキュラ伯爵的黒装束に身を包んだ海鳥たちは、日の出を前に木に登り始める。翼が長すぎて陸地から羽ばたいて飛び立つのが苦手なので、高いところから飛び降りるのだ。手を休めた私を木と勘違いしたのか、いつの間にか1羽のクロウミツバメが肩の上にとまっていた。ラナとテキィのような光景に、自然と笑みが浮かぶ。

「オァェェェェ」

 私と目のあったクロウミツバメは、その驚きを肩の上に残し、海に向かって飛び立った。油断した。サイアク、ムカツク。

「人跡未踏の島」だからこそできる生態系調査

 海鳥が生態系の中で果たす役割の解明も、調査目的の一つだ。海鳥は海で魚を獲り、陸で排泄をするため、植物の栄養となる窒素などの養分を陸域に供給する。海由来の物質が土に入り、その土で植物が育つ。植物を昆虫が食べ、昆虫をトカゲや鳥が食べ、動物の死体をハエやカニが食べる。こうして、海の栄養が陸上生物の体内に行き渡る。人間が干渉した島々では、海鳥が絶滅し、この循環は失われている。人跡未踏の南硫黄島だからこそ、このサイクルの本来の状態を把握できるのだ。

 生物の体内に含まれる安定同位体の割合を調べれば、海由来の物質の流入が計測できる。それぞれの生物の調査班の協力で、分析用サンプルが収集された。過酷なフィールドワークとラボでの分析を組み合わせることで、また一つ小笠原の生態系の真の姿に迫れそうである。

 調査を終えた私たちは、再びフィックスロープに身を預け崖下を目指す。疲れた私が、途中で命綱のカラビナと間違えてGPSのカラビナをロープにかけて放置し、全調査地データを失いかけたことは内緒の話だ。崩落地を下降していると、周囲に白い花が目立つ。2007年にはなかった外来植物、オオバナノセンダングサだ。おそらく海鳥が持ち込んだのだろう。

 この植物の種子には棘があり、人の服や鳥の羽毛に付着する。そして、多数の海鳥が繁殖する小笠原諸島の南島や東島、聟島(むこじま)列島などにも侵入している。長距離飛翔を得意とする海鳥にとって、数百kmの海は障壁の役割を果たさない。なまじ個体数が多い海鳥が運び屋となり、どこかの島から移入したのだ。

 原生の自然というと、鬱蒼(うっそう)として安定した森林がイメージされる。しかし、南硫黄島の環境はわずか10年で大きく変化していた。変化に合わせ、昆虫やカタツムリ、鳥の分布も変わっていた。

 この島は生まれて数万年の若い島だ。まだ地形が安定しておらず、あちこちで土砂崩れが起き、鴨長明がしたり顔をする。裸地は草地に、藪に、森林に遷移し、環境が変化し続ける。常にどこかが崩れモザイク状に環境が維持されることで、全体として多様性が保たれる。そして、時には海鳥が客人を招き変化に拍車をかける。

 10年に一度の調査は、この転がり続ける生態系を把握するためのものだ。十年一日ではない面白さがあるからこそ、調査はやめられない。再び行けるなら、今度はハエ対策にエラ呼吸を試みたい。上手に改造してもらえるならショッカーに捕まってもいい。どこからでもかかってこい、怪人。

デイリー新潮編集部

2021年8月2日掲載

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