世界を縮めた物質――ゴム 前編【連載】佐藤健太郎 世界史を変えた新素材(17)

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なぜ「ゴム」は伸びたり縮んだりするのか【世界史を変えた物質】

 フォーブス誌の発表したスポーツ選手長者番付によれば、世界で最も稼ぐアスリートはサッカーのクリスティアーノ・ロナウド選手(ポルトガル)で、その2016年の年収は8800万ドルに達したという(年俸5600万ドル+広告契約料3200万ドル)。以下、やはりサッカーのリオネル・メッシ(アルゼンチン)の8140万ドル、バスケットボールのレブロン・ジェームス(アメリカ)の7720万ドル、テニスのロジャー・フェデラー(スイス)の6780万ドルと続く。日本のアスリートにも、世界に伍して戦える者が出てきているが、やはりメジャースポーツのトップは桁違いだ。

 筆者の知り合いには、病の苦しみを除く医薬を生み出した人、高効率の太陽電池を生み出した人などがいる。しかし、彼らが何億、何十億円という金額を稼いだという話は聞かない。考えてみれば、人命を救い、世界を豊かにする発見をした人より、ボールを上手に打ち、蹴る人の方が、はるかに巨大な金銭と名声を手にしているのは不思議なことではある。人間というものは、命よりも感動にカネを払う生き物ということだろうか。

 とはいえ、筆者もスポーツ観戦を好む人間の一人であり、彼らトップアスリートが巨額の報酬を稼ぐことを非難するつもりはない。努力を積み重ねて困難に打ち克ち、世界の人々に明日へのエネルギーを与えているのだから、相応に評価されて当然と思う。まあ、人類に大きく貢献した研究者たちにも、アスリートに比肩しうる報酬が与えられてほしいものとは思うが。

■球技が生まれた時代

 先のスポーツ選手長者番付の上位100名中、球技のプレーヤーは89名と圧倒的多数を占めている。幼稚園児など見ていてもボール遊びは大好きで、球ひとつを追いかけて何時間でもはしゃいでいる。ボールをめがけて走り、蹴り、投げ、打ち返す動作には、かつては狩猟生活に明け暮れていた我々の、眠っている本能を刺激する何かがあるのだろう。ボールがなければ、この世界はずいぶん寂しいものだったはずだ。

 これら、世界を熱狂させる球技の起源を調べてみると、19世紀後半に生まれているものが多いことに気づく。もちろん、それぞれの原型となる競技はずっと昔からあったが、この時期にルールが整備され、組織化されて盛んになった競技が多いのだ。

1872年のイングランド対スコットランドのサッカー対戦を描いた漫画

 サッカーの場合でいえば、ボールを蹴る球技は古くから世界各地に存在しており、日本や中国の蹴鞠もそのひとつだ。しかし近代的なサッカーが生まれたのは、1863年10月26日ロンドンでのことだ。それまで、フットボールという競技は学校やクラブごとにさまざまなルールでプレーされており、対抗戦がしにくい状況だった。そこでこの日に居酒屋でクラブの代表者による会合が持たれ、手でボールを持ってはならないというルールのサッカーと、持ってもよいというラグビーの分離が決定したのだ。前者はフットボール協会を結成し、サッカーが世界最大のスポーツへと発展する大きなきっかけとなった。

 ゴルフも、すでに15世紀には原型となる競技が存在していたが、全英オープンが始まったのが1860年、爆発的ブームが始まったのが1880年代とされる。テニスも、ラケットでボールを打ち返す競技自体は以前からあり、フランスのジュ・ド・ポーム(直訳すれば「手の平遊び」)はその代表的なものだ。しかし、近代的なテニスが発明されたのは1873年、英国の軍人ウォルター・クロプトン・ウィングフィールド少佐によってであった。1877年には、現代まで続くウィンブルドン選手権が開始されている。

ウォルター・クロプトン・ウィングフィールド少佐

 野球の試合が初めて行われたのは1846年のこととされるが、投球は下手投げのみ、打者が打ちやすいコースを指定して、投手はその通りに投げねばならないなど、ずいぶん現在とは違うイメージのゲームであった。この後徐々にルールが改正されて現在の野球に近いものになってゆき、1876年にメジャーリーグがスタートしている。

1866年にアメリカで行われた野球の様子

 なぜこの時代に球技が大発展したのか。もちろん、工業化の進展による中産階級の増加といった面もあったろうが、良質のゴムが普及したことが大きな要因だ。

 ゴムの登場以前には、たとえばサッカーには動物の膀胱をふくらませたボールが使われていた。これでは反発力も弱く丈夫さにも欠け、サイズやはずみ方なども不揃いだったことは想像に難くない。

 一方、ゴムの袋に空気を入れて作ったボールなら、弾力も桁違いであり、丈夫で均質なものが量産できる。よく弾むボールを皆で追い回し、蹴り飛ばす爽快感はそれまでになかったものであり、多くの人々を虜にしたことだろう。

 こうした事情はサッカーボールばかりでなく、他の球技でも見られた。初期のゴルフボールは木製であったが、19世紀中頃に「グッタペルカ」という、樹脂で作った硬いボールが登場した。さらに、このグッタペルカの芯にゴム紐を巻きつけ、さらに表面をグッタペルカで覆ったボールが工夫され、飛距離と耐久性が大きく伸びた。現在のゴルフボールは、さまざまな硬さのゴムが層を成した、ゴム技術の集成といえるものになっている。

18世紀のゴルフボールは木製だった

 また、均質かつ大量生産可能なボールは、さまざまな球技が統一的なルールで大規模な大会を行うことを可能にし、競技の普及と発展を促した。1896年から始まった近代オリンピックも、この流れの中から生まれたものといえるだろう。

 しかし、ゴムがヨーロッパにもたらされたのは15世紀のことだ。ではなぜゴムボールを用いる球技が、400年も後になってから花開いたのか? 実は現在の我々が知るゴムができるまでには、大きなブレイクスルーが必要であったのだ。

ゴムを作る植物

 天然のゴムは、微細なゴムの粒子が水に分散した乳状の樹液(ラテックス)を、空気中で凝固させたものだ。ラテックスを作る植物はいくつかあり、タンポポなどもそのひとつだ。メキシコにはサポディラという木があり、住民たちはこの樹液から得られる「チクル」を噛む習慣があった。これが現在のチューインガムの起源とされる。

ラテックスの採取

メキシコ原産のサポディラ

 しかし、パラゴムノキに代表されるいわゆる「ゴムの木」はラテックスの産出量が多く、得られるゴムの弾力性も高いので、供給源として最も優れている。ゴムの木の幹に傷を入れることで、したたってくる樹液を集めるのだ。古くからメキシコの住民たちは、この樹液から作ったボールを用いる球技を楽しんでおり、専用の競技場も残っている。

メキシコのチチェン・イッツァ遺跡にある球戯場  (Bjørn Christian Tørrissen / Wikipedia Commons)

 このゲームは変化しながら「フエゴ・デ・ペロータ」の名で今でも行われている。中まで詰まった固くて重いゴムボールを、プロテクターをつけた腰や尻で打ち上げて、高さ約7mのリングをくぐらせたチームが勝ちというものだ。見た目はユーモラスだが、部族間で対立が起きた際には、戦争の代わりにこの競技で決着をつけていたという。ゴムボールは、平和の維持に欠かせない存在であったわけだ。

ゴムが伸びるわけ

 ゴムの特徴といえば、その群を抜く伸縮性だ。他の素材にはないこの特性は、その分子構造に由来している。

 ゴムが炭素と水素から成っており、その比率が5:8であることを示したのは、前回の磁石の項目にも登場したマイケル・ファラデーだ。現在では、ゴムはイソプレンC5H8という分子が長く一直線につながったものであることがわかっている。

イソプレンの構造

 このイソプレンという分子は重要な単位構造で、自然界の多くの化合物がイソプレンを基礎として出来上がっている。柑橘類の香り成分であるリモネンや、ミントの香りの成分であるメントール(メンソール)は2つ、バラの香り成分であるファルネソールは3つ、人参の色素であるカロテンは8つのイソプレン単位を元に出来上がっている。そしてゴムは、このイソプレン単位がどこまでも長くつながったものだ。みかんの香りとゴムは一見似ても似つかないが、分子レベルで見れば非常に近い親戚筋ということになる。

 このことは、簡単に実験で確かめられる。膨らませたゴム風船にみかんの皮の絞り汁をかけると、しばらくして風船が破裂するのだ。似た者同士の分子は混じり合いやすいので、皮に含まれるリモネンなどがゴムの成分を溶かし、風船の膜を弱めて破裂させてしまうのだ。

 このイソプレン単位には、炭素同士が二重結合と呼ばれる結合で結びついた場所がある。二重結合は他の結合と違って回転できず、分子の鎖の動きを制約する。長い鎖に規則正しく現れる二重結合のため、ゴムは分子全体が縮れた糸のようになっている。これを引っ張ると縮れが伸び、離すとまた縮れた形に戻る。これがゴムの伸縮性の秘密だ。つまりゴムはナノサイズのバネのような構造で、これが伸び縮みしていると考えればよいだろう。
続きは[世界を縮めた物質――ゴム 後編]へ

佐藤健太郎

さとうけんたろう 1970年、兵庫県生まれ。東京工業大学大学院理工学研究科修士課程修了。医薬品メーカーの研究職、東京大学大学院理学系研究科広報担当特任助教等を経て、現在はサイエンスライター。2010年、『医薬品クライシス』(新潮新書)で科学ジャーナリスト賞。2011年、化学コミュニケーション賞。著書に『炭素文明論』(新潮選書)『「ゼロリスク社会」の罠』(光文社新書)『世界史を変えた薬』(講談社現代新書)『国道者』(新潮社)など。

2017年3月22日掲載

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