競輪、酒、ドヤ街、そして歌…フォーク・シンガー「友川カズキ」が語る川崎の姿

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「何言ってるの、あなた。立派なアル中だよ」

 6畳ほどの部屋の片隅には布団(ふとん)が丸めて放り投げてあって、棚に並んでいる小説や詩集のカバーはどれもタバコのヤニで茶色く染まっている。近所のブックオフで1200円で買ったミニコンポから流れているのは、廉価(れんか)盤のジャズのコンピレーション・アルバムに収録されたリー・モーガン「ザ・サイドワインダー」。うっすらと日が差す窓際(まどぎわ)のテーブルの上には母の遺影と、新鮮な白いスプレーギク。テレビにはCSの競輪チャンネルが映り、壁のカレンダーには自分のライヴよりも強調されてレースの予定が書き込まれている。

「はいはい、お待たせしました」

 友川が鍋の中身をよそった椀(わん)と、焼酎(しょうちゅう)の水割りを持ってやってきた。まだ午後も早いが、1本目の酒瓶が空こうとしている。

「いつも何時ぐらいから飲むんですか?」

「ひとりだし、デタラメよ、デタラメ」

「朝から?」

「それはないけど、酒を飲んでて朝まで起きてることはしょっちゅうあるね」

「アル中になったことは?」

「何言ってるの、あなた。立派なアル中だよ」

「身体(からだ)は大丈夫ですか?」

「肝臓は強いね。弱いのは脳ミソだけ」

 宴会でハメを外して、大家に菓子折りを持って謝りに行ったことも何度かある。住人はやはり老人が多いというこのアパートの裏手は、統廃合を経て残った小学校だ。

「音楽室がすぐそこでね。二日酔いで寝てると歌が聞こえてくるのよ。子どもの声は全然うるさくない。いいもんだね」

高校卒業後、“土方”になった友川

 1950年、秋田県の現・三種町(みたねちょう)に生まれた友川が川崎に流れ着いたのは、20代前半――もう40年以上も前のことだという。

「その頃は駅が木造でしたよ。オンボロで。東口は繁華街だったけど、西口には古い家しかなくて、2階建てが珍しいくらいだった。で、東口から西口へ行くのに使う地下道に、傷痍(しょうい)軍人がいてね。松葉杖(まつばづえ)ついて、ハーモニカ吹いたりアコーディオン弾いたりして、金を集めてて。まだそういう時代だったの。後で知ったんだけど、あの傷痍軍人は偽者(にせもの)も多かったんだってね。元締めがいて」

 友川は、高校を卒業した後、何度か上京と帰省を繰り返すうちに、東京近郊でいわゆる“土方”として暮らすようになっていった。“友川カズキ”なる芸名も、本名の及位典司(のぞきてんじ)の読み方が難しく、飯場(はんば)で説明するのが面倒くさかったため適当に付けたものだ。

「フォークを知ったのも練馬の飯場にいたとき。そこで『山谷(さんや)ブルース』(岡林信康、68年)を聴いてびっくりした。それまでは歌謡曲が好きで、フォークって嫌いだったのよ。『この広い野原いっぱい♪』なんて歌ってバカじゃないかと思ってた。それが、岡林でぶっ飛んじゃって。自分でも曲を書くようになった」

 やがて、友川は土方仲間から家賃が安く、敷金・礼金もいらないアパートを紹介され、川崎へ移り住む。木造の古い建物に4畳半一間の小さい部屋が並ぶ一方で、廊下がやけに広い構造は、かつて、青線地帯の売春宿として建てられた名残だった。毎早朝、彼はそこから駅の反対側の、競輪場の前にある職業安定所へと出かけていった。

「タチンボ(日雇い)は早く行かないと仕事にあぶれちゃうからね。で、仕事がもらえた日は、そこからいろんなところに運ばれていって」

 そして、帰りは駅前で飲んで、また西口へと戻るのだ。

「最初のアパートは安いし、最終的には4部屋も借りた。ひとつを宴会専用にしたり、飲みに来た人の宿泊用にしたり。豪華でしょう。そんなふうに、長い間、自由にやってたんだけど、地上げに遭って取り壊しになっちゃって。しょうがないから、リヤカーを借りてきて近所に越しました」

 しかし、そこも地上げのために取り壊しとなってしまう。バブル景気の時期、川崎駅周辺は目まぐるしく変わっていった。88年に世間を騒がせたリクルート事件も、西口再開発のための便宜供与から発覚したものである。友川は工事に追い立てられるように住居を転々としたわけで、ただ、実際の現場を担当していた土方たちの労働環境は良いものではなかったという。そんな彼らがストレスを発散したのが、例えば駅前の飲み屋街であり、堀之内町のソープランドであり、市役所通りの競輪場である。

「キツい仕事の後ほど、キツいことをしたくなるでしょう? 疲れたときはタバコもキツいヤツがいいし、酒もウイスキーをストレートで飲みたくなる。土方が競輪に行くのはその感覚ですよ」

競輪は「大衆小説の面白さ」

 友川が競輪を始めたのは、20年ほど前のことだ。ギャンブル歴は飯場で覚えた花札から始まり、パチスロに命をかけていた時期もあるが、友人の脚本家・加藤正人に連れられて行った川崎競輪場でその魅力の虜(とりこ)になった。

「最初は『ガラが悪いなぁ』と思いましたね。外は(ホームレスが住む)青テントだらけだし、レース中も『てめぇ、この野郎!』とか野次は普通だったから。バンクが金網で囲まれてるのは、昔の競輪ファンは負けると新聞紙に火を点けて投げ込んだのよ。私が行くようになるずっと前の話だけど、川崎競輪場で暴動が起こって、地元の親分が来てやっと収めたっていうんだから」

 そして、友川にとっての競輪の醍醐味(だいごみ)は、なんといっても人間くささにあるという。

「競輪は人そのものがエンジンなんでね。競艇やオートレースは実際のエンジンを積んでるし、競馬は馬がエンジン。だから、私は『競馬も、騎手が馬背負って走るなら賭けてもいい』って言うんだけど。人の気持ちならわかっても、馬の気持ちはわからないからつまらないじゃない。人を読み込むっていう、文学とまではいかないけど、大衆小説の面白さですよ」

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