「加藤一二三」「屋敷九段」「神谷八段」…大記録を破られた棋士たちが「藤井聡太」にアドバイス

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クソガキと大人

「時代が変わったなあ」

 17年5月。静岡県浜松市在住の神谷広志八段は、妻と一緒に藤枝までハイキングに行った。入った蕎麦店でテレビニュースを見ていると、14歳の藤井聡太四段がデビュー以来無敗で勝ち進み、16連勝したことが伝えられていた。それでもまだ、自身の持つ28連勝の記録が破られるとは思っていなかった。

 だが、藤井はなんと将棋史上最多の29連勝を達成した。藤井が勝ち進むにつれ、大きくクローズアップされたのが、神谷である。

 神谷は1961年生まれ。80年度に19歳で四段に昇段し、プロとなった。

 将棋界に優等生タイプの棋士が増える中、神谷は異彩を放った。反骨精神にあふれ、上位の大物棋士にも物怖じせずにはっきりとものを言った。競馬が好きで、自身の過去は大きなレースとの関連で覚えている。

 86年度。神谷は不調で、順位戦C級1組では成績下位につけられる降級点(2回取ると降級)を取りそうなピンチを迎えていた。しかしそこをしのいだのが転換点となる。そのあとは逆に公式戦で白星が続いていった。

 翌87年度になっても連勝は止まらない。当時の最多記録である22連勝を更新した後も続き、28連勝目には当時の超一流・米長邦雄九段まで破った。

 何があったのか。

「凡人がほぼ運だけで作った記録。あとでわかったんですが、途中、振り駒で8連勝しているんです」

 神谷はそう謙遜する。

 将棋では先手番と後手番を、駒を振った裏表の数で決める。勝率がわずかに高い先手番を取る確率は2分の1だから、それを8回連続で取ったのは、運もあったに違いない。

 しかし、たとえそうであっても28連勝は偉業としか言いようがない。が、

「23連勝したときも、週刊誌1誌が取材に来ただけ。でも別のニュースが入って飛んでしまった。それくらいでした。その週刊誌は28連勝した時にまた来たんですが、ふざけんなと思ってその時は相手にしなかったですね。当時はまだ若かったから」

 連勝が止まった29戦目には出身地の静岡からテレビの取材が来た。週刊誌の取材も何件かはあった。しかしそれぐらいのものだった。30年後の藤井フィーバーとは比べるべくもない。

 連勝達成後、ファンや関係者の間では「28連勝」は神谷の代名詞になった。しかし屋敷同様、神谷自身は記録をそれほど意識してはいなかった。

 2016年10月。藤井聡太がプロ入りした。天才少年の存在はそれ以前から知っていた。いずれ自分の記録が破られる可能性があるとも考えた。しかしそれがデビュー以来無敗で成しとげられるとは、想像すらできなかった。

 藤井が投了間近の局面から大逆転で20連勝目を達成した時点で「もしかしたら」と思い、はじめて記録を意識し始めた。

「やっぱり僕もそんなに人間ができてないんで、破られたくないなと思ったんですよ」

 22連勝目も藤井の大逆転勝ち。ここでいよいよ神谷は観念し始める。記録更新に備えた記者たちからの取材の申し込みを受け始めた。藤井がさらに勝ち進むにつれ、予想以上にマスコミからの取材が殺到した。

「もう5時間ぐらい、30分ずつ10社からずっと撮られるような状態でした。そのとき、27連勝で止まってくれたらと思ったんですよ。27連勝で止まって、その数年後に藤井さんがずっと勝ってて、その時もう一回取材に来ないかなって。もう私、俗人中の俗人なんで」

 神谷は自身の連勝記録を謙遜し「ガラスでできたおもちゃ」と喩える。しかし藤井の活躍に際し、世間はダイヤモンドのようにもてはやした。その様子を見ているのは面白かったという。

 藤井はついに28連勝。テレビカメラに囲まれながら、神谷はその瞬間を報道陣と一緒に見届けた。

 そして29連勝の新記録達成。神谷があらかじめ将棋連盟に提出していたコメントが発表された。

「28という完全数は一番好きな数字ですのでそれが1位でなくなることは個人的に少々寂しいのですが凡人がほぼ運だけで作った記録を天才が実力で抜いたというのは将棋界にとってとてもいいことだと思います」

「少々寂しい」と言いつつ、神谷はコメントには出さなかった別の感情を抱いていたという。

「ちょっとその前に将棋界が嫌な空気だったじゃないですか」

 16年に起こった、将棋ソフトの不正使用疑惑のことだ。後に第三者調査委員会によって三浦弘行九段の疑惑は否定されたが、

「あの頃は若手と研究会をしていても、こんなことしていて何になるんだろうという、どよんとした雰囲気があった。将棋界存続の危機と言ってもよかったのですが、でも、藤井さんは、そうした空気をぜんぶ吹き飛ばしてくれた救世主でした。一人の天才でこんなに変わるのかな、と」

 神谷はまだ、藤井二冠とは一度も対戦がない。

「一度は当たってみたいですね。テレビで聞かれた時には“4回に1回は勝てる”なんて盛って言いましたけど、そんなわけはない。28連勝時の僕でもそんなに勝てないですよ。こてんぱんにやられるでしょうが、それでもやってみたいという気持ちはありますね」

 二冠とは挨拶程度しか交わしたことがないというが、

「僕が18歳の時なんてしょうもないクソガキ。それから見れば信じられないくらい大人びていますね」

 藤井が「大人びている」という見方は筆者も同感だ。14歳の藤井に取材した際、どんな質問にも時間をかけて慎重に言葉を選ぶ姿勢が印象に残った。

「今後、変な大人が寄ってきたら気を付けた方がよいと思いますね。商売に利用しようとか、利を貪ろうという人が近づいてくるはず。そこは気を付けてほしい。やっぱり将棋界を救ってくれた人だから」

 タイトルや棋戦優勝には縁のない神谷だが、厳しい世界を生き抜いてきた先輩だけに重みを持つ言葉である。

“テレビに出られます”

 現在は史上空前の将棋ブームと言われる。藤井聡太の出現がその決定打となったことは間違いない。しかしそれ以前から、将棋界には多彩なキャラクターの棋士が存在することが、世間に知られ始めていた。「ひふみん」の愛称で親しまれるようになった加藤一二三九段もその一人だ。

 テレビに映るひふみんは、ユニークな好々爺として知られている。しかし将棋界のオールドファンにとっては、「加藤先生」はまず何よりも「神武以来(このかた)の天才」だ。将棋界は天才が集まる世界と言われる。その中にあって、加藤ほどその早熟ぶりを称えられてきた棋士はいない。

 1954年。加藤は14歳7カ月でプロ入りし、将棋界の最年少記録を次々と打ち立てていく。四段、五段、六段、七段、八段昇進まですべて記録を更新した。しかし、60年近く経ってようやく、五段を除いてすべて藤井に塗り替えられた。

 加藤はその後も名人1期を含め、タイトルを通算8期獲得(歴代9位)。キャリア晩年も、いくつもの最年長記録を更新しながら、現役生活を続けていた。その最終盤で藤井が現れたのは奇跡的だ。

「タイミング的に、いいときに彼が四段になったんですね。しかもね、初戦が私」

 藤井の選んだ戦型は、加藤がもっとも得意とする矢倉だった。藤井はよく戦い、堂々の勝利を飾った。加藤はその翌年、長い現役生活にピリオドを打った。

「あの将棋は1カ所だけ私にチャンスがありました。(中盤で)7四銀不成としておけば、私が面白い将棋だったと(今から)2カ月くらい前に気づいたんです。藤井さんはよく研究していると感心いたしました」

 近年、加藤はその飄々としたキャラクターが受けて、テレビによく登場するようになっていた。藤井の連勝が始まると、その出演機会もまた増えた。

「藤井さんが29連勝を達成する過程で、私が非常に注目されましてね。“藤井さんについて語ってください”ということで、控えめに言っても50本のテレビ番組に出ております。私が将棋会館で藤井さんにばったり会ったときに言ったんですよ。“あなたが勝つとね、私はテレビにたくさん出られるようになってます”と。彼はにっこり笑っていました」

理屈ではわからないこと

 最多連勝記録を達成したあとも、藤井は着実にステップアップを重ねた。

 しかしその藤井ですら抜くことができない不滅の大記録がある。それは加藤が達成した18歳での順位戦A級入りだ。

 14歳で四段となった加藤は足踏みすることなく毎年順位戦での昇級を繰り返し、18歳でA級へと駆け上がった。「神武以来の天才」という加藤の二つ名は、この頃生まれた。さすがの藤井でもこの18歳A級は達成することができなかった。つまりはこの先も、加藤の記録が更新される可能性はほとんどない。

 藤井が更新できない記録はまだある。それは20歳3カ月という、加藤の史上最年少名人挑戦記録だ。このまま藤井が今年度、B級1組を勝ち抜いてA級に昇進し、来年度A級でも1位となって名人に挑戦したとしても、この記録には届かない。藤井の存在によって、加藤の記録の偉大さが再確認された格好だ。

 加藤は現在81歳。将棋盤のます目と同じ数の「盤寿」を迎え、なお矍鑠(かくしゃく)と活躍中だ。人生の大先輩として、彼は藤井にエールを送り続けている。

「将棋に対する研究態度はブレない姿ができあがってますから、それでいいと思うんです。それとやっぱり健康であることは大事です。私も健康だったから、深夜に及ぶ対局が終わっても疲労困憊したという経験がないんですよ」

 加藤はクラシック通、またローマ教皇から勲章をもらうほど信仰の深いカトリック教徒としても知られている。

「藤井さんがさらに飛躍発展するためにどうしたらいいか。バッハやモーツァルトといったクラシック音楽の名曲を聴くことを勧めたい。私は対局の前の日は、将棋の研究を少しして、後は好きな音楽を聴いていましたからね。研究に没頭するのもいいけれど、気分転換を兼ねてクラシック音楽に浸るとかね。そういったことを期待したいと思っているわけです」

 そして「一つ強調したいこと」としてこう言う。

「僕は1982年、3度目の挑戦で中原誠さんに勝ち名人になりましたけど、その時はね、95%負けている将棋を勝ったんですね。やっぱり棋士人生がかかった勝負の時とかはね、理屈ではわからないことが生じるということを言いたい。僕は信仰を持っていたから神の助けと確信していますがね」

 敬虔な信仰者で、将棋の求道者でもあった加藤らしい言葉である。

 藤井が新たな記録を更新しようとする度、以前の記録やその達成者が注目され、光が当てられる。いよいよ棋界制覇に向けて踏み出し始めた藤井。2021年度、将棋界の正史にどのような歩みを刻むのだろうか。

(敬称略)

松本博文(まつもとひろふみ)
将棋ライター。1973年、山口県生まれ。東大法学部時代、将棋部に所属し、在学中より将棋書籍の編集に従事。卒業後はフリーの将棋ライターに。日本将棋連盟などのネット中継にも携わる。著書に『ルポ 電王戦』(将棋ペンクラブ大賞文芸部門受賞)、『藤井聡太 天才はいかにして生まれたか』など。

週刊新潮 2021年5月27日号掲載

特別読物「死角はあるか!? 大記録を破られし“伝説の棋士”たちが『藤井聡太』への助言」より

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