10年後に2021年の日本を振り返ったら… 理性的な熟慮から見えてくるもの(古市憲寿)

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 ふと10年後のことを考える。2031年の人々は、今年をどのように振り返っているだろうか、と。

 個人にとっても、社会にとっても、10年は頭を冷やすのに十分な期間だ。たとえば今年は東日本大震災から10年だが、原子力発電や放射性物質の功罪については、だいぶ理解が進んだ。

 正確にいえば、にわかで大騒ぎしていた人が興味をなくし、専門家も比較的冷静に議論をしているように見える。少なくとも、当時の「AERA」が煽っていたように、東北地方が「チェルノブイリ」のようになる、といった意見は目にしない。

 だが「AERA」を責めようとは思わない。震災直後の日本では、少なくない人が同様の危惧を抱いていたからだ。僕自身、刻一刻と変化する原発の状況と、東京電力による記者会見を、固唾を呑んで見守っていた。

 後知恵で過去を批判するのはアンフェアである。時代の最中に、その全貌を把握するのは非常に難しい。

 それはまさに2021年にも当てはまる。新型コロナウイルスの収束が見えない中、オリンピックの開催を巡っては世論が二分している。

 もしも2031年からタイムトラベルをしてきた人がいれば、開催するかどうかの判断は簡単なはずだ。その頃にはコロナの全貌が見えているだろうからだ(タイムトラベルができるなら、今年ではなく2012年あたりに戻って、立候補を断念させてほしいけれど)。

 まだ10年は経過していないが、今になってザハ・ハディドの設計した新国立競技場を見たかったという人がいる。2012年にデザインコンペによってザハ・ハディド案が選ばれながら、工期や費用を巡って大激論が起こり、2015年に白紙撤回となってしまった。

 結局、全てが仕切り直しとなり、隈研吾さんが設計した新国立競技場が完成した。華美でないが、軽やかさを感じるスタジアムで、個人的には嫌いではない。それでもザハ・ハディドによる近未来的な建物を見たかった気もする。

 勝手なものだと思う。2015年当時を振り返ると、そもそも僕はオリンピック開催に冷ややかな目を向けていたし、旧国立競技場を改修して使用しなかったことに不満を抱いていた。

 このように気ままで私的な感情の集積が「世論」である。

 歴史学者の佐藤卓己さんによれば、かつて日本語では「世論」と「輿論」を使い分けていたという。情緒的な「世論」に対して、理性的な討議と熟慮を経て形成されるのが「輿論」である(『輿論と世論』新潮選書)。

 沸騰した頭で物事を考えても、浅はかな判断を下してしまうだけだ。だから一つの方法として、「10年後」という視点を導入することを提案したい。それはオリンピック開催のような社会的事象に限らず、人生における選択でも同様だ。10年の時間間隔で後悔のない選択をしたい。

 高齢化が進む日本では、「10年後なんて生きているかどうかわからない」という声も聞こえてきそうだけども。

古市憲寿(ふるいち・のりとし)
1985(昭和60)年東京都生まれ。社会学者。慶應義塾大学SFC研究所上席所員。日本学術振興会「育志賞」受賞。若者の生態を的確に描出した『絶望の国の幸福な若者たち』で注目され、メディアでも活躍。他の著書に『誰の味方でもありません』『平成くん、さようなら』『絶対に挫折しない日本史』など。

週刊新潮 2021年5月27日号掲載

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