印刷技術から生まれた三つの事業を再融合する――麿 秀晴(凸版印刷代表取締役社長)【佐藤優の頂上対決】

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ちゃんと修羅場をくぐる

佐藤 麿さんは、38年ぶりの理系出身社長と聞きました。大学では何を専攻されたのですか。

麿 高分子化学です。その中に印刷工学がありました。有機物をいじると、色を作り出すなど印刷という形でさまざまなことができるんです。ちょうどフィルムやボトルへの印刷が課題になっていた時期でもありましたから、印刷会社が面白いと思って、この会社に入りました。

佐藤 専門技術を持って入社されながら、営業やマネジメントなどさまざまな部署を経験されていますね。

麿 いずれ技術の仕事をしたいと思っていましたが、印刷業は受注産業です。何かモノを作ってみんなに売るというビジネスモデルではない。ですから先に営業をやるべきだと考え、志願しました。

佐藤 どちらに行かれたのですか。

麿 出身地の東北を希望して山形の営業所に12年間いました。経営者になってみると、この時の経験が大きいですね。

佐藤 どういう経験ですか。

麿 規模は大きくありませんが、地元の経営トップの方々と直接お付き合いすることができた。私がまだ1年目、2年目の若輩者でも、いろいろ相談を持ちかけられましたし、会社経営でご苦労されている話や、会社をどう成長させていくか、あるいは自分の家族や従業員、その家族をどう守っていくかなどを聞かせていただいた。非常に恵まれた体験だったと思います。

佐藤 20代から30代前半にどんな人たちと出会って、どういう経験をしたかが、その後の人生を決めていきますよね。

麿 そうだと思います。

佐藤 私の場合もソ連崩壊時にモスクワの日本大使館にいて、ゴルバチョフのペレストロイカや、エリツィン政権、プーチン政権と変わっていくロシアを目の当たりにしました。その際、エリツィン大統領とも何度か会いましたし、その側近とも親しくなりました。それが大きな糧になっています。

麿 20、30代の体験は自分の思考回路や考え方を広げていきますよね。「経験しろ」とか「修羅場をくぐれ」などといったベタな表現がありますが、やっぱりそういうことはすごく大事だと思います。

佐藤 山形勤務のあとは東京ですか。

麿 先ほどご紹介したGL BARRIERの開発をやりました。

佐藤 そうでしたか、功労者なのですね。当時は、これほど広がると思っていましたか。

麿 最初の頃はぜんぜん思わなかったですし、社内でも相手にされませんでしたね。実験には蒸着機が必要なのですが、私が使った設備は、当時、ビールのラベルを作るような機械でした。注文が多く、しっかり利益を出している機械なので、なかなか空けてくれない。夜中の零時とか1時にならないと使えなかったので、工場に泊まりこんで試作を重ねましたね。

佐藤 何歳くらいの時ですか。

麿 30代半ばです。あの頃は寝る間も惜しかった。

佐藤 時間に関係なく、一つのことに打ち込んだ体験がある。

麿 いまは残業をするな、という時代で、それはそれで正しいのだと思います。ただ、これから会社を背負ってリーダーになっていく人にとって、例えば、時間を気にせず仕事をした経験は貴重なのではないでしょうか。

佐藤 私もロシア語研修でイギリス陸軍の学校に通っていた時は、朝の8時から12時までが文法、午後1時から4時までが会話、その後に6、7時間はかかる宿題が出ました。いまの働き方改革で、5時以降ロシア語はやりませんと言っていたら、身に付かなかったと思います。

麿 私が大阪で責任者を務めていたときは、ローテーションを組んで法定時間を超えないようにしながら、あえて長時間を経験させるプログラムを考えました。温室育ちの人ばっかりになったら、会社が困ります。国際事業部時代に上海に駐在しましたが、現地で入社した若い人たちは、自分のスキルアップや目標のために死ぬほど勉強しますし、ものすごく働きます。これからは、そういう人と競争していかなければならない。

佐藤 ソ連時代も、共産党中央委員会の官僚たちは、ものすごく働いていました。給料は安いけれども、国を背負っているという自負心がありましたから。

麿 社会の要請する働き方を弁(わきま)えながらも、若い人には、自分のスキルや考え方を広げていくために、ちゃんと修羅場をくぐってほしいと思います。

佐藤 まったく同感です。

麿 そうでないと、今回のコロナ禍みたいなイレギュラーなことが起きた時に、うまく対応できなくなる。コロナ禍は不幸な出来事ですが、会社にとって贅肉を削ぎ落としてくれたり、無駄に気づけた面がある。必要なものがコロナというメッシュを通してクリアになったところがありますね。

ヤキモチのマネジメント

佐藤 こうした老舗の大会社では、みなエリートだという自負がありますね。その中で評価されたりされなかったりする。すると他人に「ヤキモチ」を焼く人が出てきます。これは個人の修羅場ですが、そのヤキモチのマネジメントはどうされていますか。

麿 会社がヒアリングやケアをしなければなりませんが、やっぱりその人がどのレベルのどんな目標を持っているかを明確にして、自覚してもらうことだと思います。どこまで自分のポテンシャルを上げるかという目標があれば、同期が1年早く出世しようが、自分が2年遅れようが関係ないですから。

佐藤 確かにその通りですね。

麿 専務になるとか役員になるという目標があったら、1年早かろうが遅かろうがたいした変わりはない。それよりはいま自分がどんな経験を積むべきか、どのようなスキルが必要かを考えるほうが重要です。

佐藤 そして出世していくと、それだけ当たる風も強くなります。課長と部長では風圧が違いますし、本部長、役員となったらさらに強くなる。その時、避けられない事故が起きることがあります。

麿 それはもう、立場ごとに腹を括るしかないですね。そこで自分のミッションを果たすだけです。一番問題なのはそこから逃げることです。

佐藤 それはダメですね。

麿 問題をしっかり受け止めた結果としてどうなるかは、もう会社に任せるしかない。もし辞めることになっても、逃げなければ、付き合いのある会社が呼んでくれるかもしれない。でも逃げる人と一緒の船に乗ろうとする人はどこにもいません。

佐藤 私も、逮捕されたあとに2社から誘いがありました。一つは外国の武器会社でしたけれど(笑)。

麿 私は社員にどんどんチャレンジしてほしいのです。失敗しても、叱るつもりも減点するつもりもありません。たぶん歴史がある会社の一番の悩みは、社員それぞれが高いポテンシャルを持っているのに、それを発揮できていないことです。自分のいる部署のミッションをあまりにリジッド(固定的)に考えすぎる。

佐藤 一つの部署で、自分の仕事に自身で2割増しくらいの負荷をかけてやっている人が2、3人いると組織は変わります。

麿 そうでしょうね。社長ディスカッションでも、提案や着眼点はすごくいい。ところが、思いついてもアクションが起こせない。そこには、自分の部署のミッションでないとか、どこを通じて実現させればいいかわからないとか、いろいろ理由がある。

佐藤 そこは上司がうまく導く必要があります。

麿 そうなのです。そもそも弊社は受注産業の体質が根づきすぎて、うまく調整しようというベクトルが非常に強い。ただ事業を取り巻く環境の変化は10年前、20年前の10倍、20倍のスピードになっています。その中では、トンガった技術やサービスが必要になってくる。ですからもうちょっと社内の自由度を上げて、可能性を広げる方にベクトルを持っていきたいと思っています。

麿 秀晴(まろひではる) 凸版印刷代表取締役社長
1956年宮城県生まれ、山形大学工学部卒。79年凸版印刷入社。山形営業所で12年間勤務。92年よりGLフィルムの開発・量産体制を構築。群馬工場生産技術部長、相模原工場長などを経て2009年取締役関西事業本部副事業本部長。12年常務取締役国際事業部長、14年同経営企画本部長、16年専務、18年副社長。19年より現職。

週刊新潮 2021年5月6日・13日号掲載

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