「地下鉄サリン事件」から26年、教祖「麻原彰晃」が演出したハルマゲドン

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教団ナンバー2の殺害

 騒乱の只中、そのオウムも“公開テロ”に遭う。平成7年4月23日の夜、報道陣でごった返していた南青山の教団総本部前。一連の事件のキーマンとされ、捜査の手が及びつつあった教団ナンバー2の村井秀夫(36=当時)が、凶刃に斃れた。

「左腕を一撃され、続けて右脇腹を抉られた村井の傷は肝臓から腎臓に達し、翌日未明に死亡。犯人は公判で『暴力団幹部から指示された』と主張したものの、幹部はこれを否定。今に至るまで経緯は謎のままです」(全国紙デスク)

 7年1月にVXガスで襲撃され、死線をさまよった「オウム真理教家族の会」の永岡弘行会長が回想する。

「入信した息子を脱会させるため、私も説法会に行きました。参加するには千円以上のお布施が必要で、私がわざと3万円を握りしめて1枚落としてみせると、全盲のはずなのに麻原はそれをサッと目で追った。最初からインチキだと思いました」

 その好例が、水中で息を止める「水中クンバカ」なる“修行”である。

「息子は『尊師は24時間潜っていられる』と、完全に信じ込んでいた。だから私は、スキューバダイビングが趣味だったこともあって麻原に『神宮のプールで勝負しよう』と挑んだのです。その時は『そんな時間はない』などと言い逃れていましたが……。またある時、サシでやり合おうと麻原に立ち向かったら、合図とともに新実(智光=平成30年死刑執行)たち数人に取り押さえられてしまったこともありました」(同)

 取るに足りない俗物が、かくも大きな力を持つに至ったのは、

「食うや食わずの時代ではなく、物質的に豊かであっても何かが満たされない平成の時代。その心の隙間に巣くったのがオウムだったのでしょう」(同)

 けだし飽食が産み落とした“鬼子”といえようか。麻原はじめ13人が刑場の露と消えてもなお、後継団体は活動を続けている。すべてが幕を閉じたわけでは、決してないのだ。

2021年5月10日掲載

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