終身刑ではなぜダメなのか ある無期懲役囚の主張

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終身刑では反省しない

 前回の記事では、無期懲役囚である美達大和氏の『死刑絶対肯定論』から、服役囚たちの反省とは程遠い実像など、美達氏の主張する厳罰化の根拠をご紹介した。

 そうはいっても、仮釈放のない絶対的な終身刑などで死刑の代わりにすればいいではないか――という意見もある。実際に死刑廃止を訴える中にはそういう立場の人もいるようだ。

 しかし、これに対しても美達氏は否定的だ(以下、引用は同書より)

「(終身刑は)社会からの隔離という点では、死刑囚と同じですが、死刑囚は自らも死を目前のものとして考量する機会が生じるために反省する者も現れます。しかし、将来、社会へ出られる可能性がなくなった受刑者達は、罪の意識も省察もなく、自分の非を一顧だにせず、刑を科されるようになった原因である被害者をより一層恨み、弁護人を罵倒し、裁判官・検察官を呪うでしょう。皆さんが考える人間と、受刑者(特に再犯受刑者)の思考と価値観は、本当に別の星の生物のように異なります。

 自分に非があることを一切、省みることなく、被害者を憎むという精神性、人の命を奪ったにも拘わらず何の痛痒も感じず、出所すること、目先の楽をすることだけを考えている人間達です。ごく稀に自分の過ちに気が付く者もいますが、両者の差はあまりにも大き過ぎます。

 また、人権人権と叫ぶ人達が、その人権を尊重し、死刑を廃止する前提として終身刑を創設することに、強い欺瞞を感じます。社会復帰の希望がないまま長い間生きるということが、どのようなことかわかっていないのではないでしょうか。

 ベッカリーア(イタリアの法学者)は、刑の強さではなく、長さが大切だと述べていますが、改悛の情のない者にとっては、刑の長さは何らの効力もなく、そのような者に相応しい刑罰は強い刑罰(死刑)です。またフランスでは、終身刑を科された10人の受刑者たちが共同で、死刑にしてくれるように司法当局に要望しています。

 終身刑は、社会から凶悪犯罪者を隔離する面では死刑と同じですが、死刑囚は常に死と向き合わされます。そこから被害者の立場に思いを巡らせ、真の反省に至る者が、死刑囚の中にはいるのです。終身刑では、受刑者に「死」と向き合わせることができません。当所で長く務めている経験から、そのことは容易に想像できます。人権派と称する人達が気付かぬことでしょうが、本人の改心と更生を妨げる処遇がいかに人権を無視した行為なのか、知って欲しいものです。

 殺人犯の私がこのようなことを述べると非難を受けるでしょうが、改心し、自分を悔い改めようとした者は、将来の有無に拘わらず、邪心や欲望や誤った心から脱却し、穏やかな精神の働きを感じられるようになります。自己の過ちに気付き、被害者・遺族のことを考え、人として正しくあろうという試みが、自身の精神に作用し、やっと人間らしい生活への門をくぐったとも言えるのではないでしょうか。なぜ人殺しの自分がこのようになれるのか、不条理とも思いますが、深く悔いて更生を誓っている同囚の中にも、似たような精神の変化を訴える者がいます。大罪を犯した事実と罪は消えませんが、人としてやり直す(社会復帰の有無に拘わらず、です)ことは、自身に対する義務とも思えるのです。

 元来、反省心の無い者に終身刑を科すと、彼らの大半は気持ちが弱い為に、他罰的に考え、ますます自己の責務を放棄するようになるでしょう。社会に出る見込みのない者が能動的に生きることは難しく、受刑者という人種は尚のことです。人権や人間の尊厳が大切だという人達は、本当にその意義を実現する気があるならば、犯した罪に見合った刑罰を科すように求めて欲しいと思います。死刑を科す者には、適切な時期を定めて執行し、自らの命を以って責務を果たすようにさせること。そして、それに値しなかった罪の者は無期懲役刑を科し、刑務所で厳しく改善指導するのが、本当に人間らしい処遇です」

死刑が反省のきっかけに

 実際に美達氏が刑務所内で話をした死刑囚の中には、死刑がきっかけて罪と向き合った者もいるという。

 複数の人を保険金を騙し取る目的で殺害し、死刑が確定してから5年目くらいのAさん。美達氏は、昔から知っている人物だったが、判決確定後はガラリと人相が変わり、まだ50代前半なのに好々爺然とした風貌になっていたという。

 自室でAさんは毎日1時間ほど数珠を手に正座し、被害者の冥福を祈っていた。美達氏は、ある日、Aさんに尋ねてみた。

「今のように反省し、被害者の冥福を祈るようになった、きっかけは何ですか」

 Aさんは、のんびりした口調で、考えながら訥々と話し始めた。

「死刑だって思ったことかな……俺も死ぬんだってな。考えたことなかった、自分が死ぬことは。いつか死ぬのはわかってたけどな。自分の番がすぐに来るなんて……それからだ、相手のことを考えたのは」

「Aさん。もし、死刑でなかったら、相手のことは考えなかったですか」

「わからん……うーん、たぶん、考えないかもな。娑婆に出られる訳だしな……いや、考えたかなあ……何とも言えんな」

「死刑を意識したのは、いつの時点ですか」

「うん、パクられてからだ。刑事に言われたのもあるし、あれだけ何人も殺ってたら、それ以外、ないよなあ……ハハハ」

「何人も殺している間ってのは、1年以上にわたってですが、その間は何か考えたことはないのですか」

「うーん、ないな……もう、止まらんかった。1人殺る度に金がどさっと入ってくるし、自分が天下を取った気分になってな。バレるとは思いもしなかったし、バレたら終わりだからなあ……。狂ってたんだよなあ、今から思うと」

 別の日にはこんな会話もあった。

「Aさん。先日の件ですが、自分の死刑を意識したら、すぐに相手のことが浮かんだのですか。そのことを考えていたら、疑問に思いましたので」

「……うーん、すぐじゃない。何て言ったらいいか、うまく言えんけど、自分が死ぬというより、バッタンコ(執行のこと)されるよな。俺が殺されるってことだな、そうだろ。そう思うと、暫くしてから相手のことを考えるようになった訳だ」

 Aさんは死刑を契機に、人が死ぬということ、人を殺すということについて正面から向き合うようになり、結果として毎日冥福を祈る心境に達したようだ。

 しかし、こういう人は受刑者の中では少数派で、反省している者は全体の1、2パーセントだ、というのが美達氏の見立てだ。

 一方、人を殺しながら「反省なんて考える奴、いないですよ、ハハハ」「反省はいりません。だって、自分らは体で代償払ってんですからね」などという受刑者は決して珍しくないという。

「このような同囚を見ますと、心の中で、自分はこうなってはいけないという決意と、量刑の軽さに対する思いがむくむくと湧き起こります。

 無期囚には、論告求刑が死刑だった者もいますが、首が繋がったせいなのか、自分の所業を一顧だにしません。殺された被害者の境遇と比べますと、何と、不条理なことかと感じます」

 こうした経験から、美達氏は無期懲役囚の立場でありながら、死刑を肯定するようになっていったのである。

2018年7月12日掲載

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