暴力団「工藤会」壊滅作戦を指揮した検事、反社との戦いに捧げた生涯 人生最大のピンチとは

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 その元検事が亡くなって1年が経つ。土持(つちもち)敏裕。大蔵省の接待汚職事件のあおりで受けた処分をものともせず、心機一転、反社会的勢力との戦いに身を捧げた。時代の波に翻弄されながらも、現場で汗する警察官と記者を愛し、また愛された検事人生であった。

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「死刑に処するのが相当」

 2021年1月14日、暴力団「工藤会」総裁、野村悟に対する福岡地裁の論告求刑公判。福岡地検の公判立会検事の声が響いた。

 元漁協組合長射殺事件や看護師殺人未遂事件など四つの事件で、殺人や組織犯罪処罰法違反(組織的な殺人未遂)などの罪で起訴された野村は表情を変えず、手元の200ページを超す論告要旨のコピーを目で追った。

 野村らの関与を直接示す証拠はなく、被告側は3月11日の最終弁論で「どの事件も無関係」「独善的な推認」などとして無罪を主張。8月24日の判決については予断を許さないが、検察側の極刑求刑は警察と検察が存在意義をかけた「工藤会壊滅作戦」のひとつの到達点だった。福岡地検検事正としてその先頭に立ってきたのが、土持敏裕である。

 土持が亡くなったのは、昨年3月19日午後9時35分。享年64。眠るような最期だったという。17年7月、京都地検検事正を最後に退官し、弁護士として活動していた土持だったが18年5月、夜中に異常に血圧が上がり、念のため受けた心臓など胸部のCT検査で偶然、すい臓がんが見つかった。手術を2回受け抗がん剤治療を続けてきたが、昨年3月中旬に容体が急変。15日の午前中、駆けつけた実妹の土屋由起子に「検事の仕事をまっとうできて幸せだった」と話し、その夜、意識がなくなった。

 動顛が収まらぬ土持の妻、恭子から友人代表としての弔辞を頼まれた筆者は、「記者の自分でいいのか」と一瞬迷ったが引き受けた。

 3月22日午前、東京都板橋区内で行われた告別式。桜が満開だった。

 参列者は工藤会の事件で同じ釜の飯を食った元福岡高検検事長の松井巖や、司法修習時に土持の指導を受けて検事になった福岡地検検事正の片岡敏晃(今年1月退官)、土持が勤務する弁護士事務所のオーナー滝田三良、元福岡県警本部長でトヨタ自動車顧問の吉田尚正ら法曹・警察関係者が十数名。司法修習35期の同期、黒川弘務からは弔電も届いた。検事総長を目前にしながら賭け麻雀の発覚で2カ月後に辞職することになる、当時の東京高検検事長である。

 元日経新聞記者でテレビ東京役員の吉次弘志や東京新聞社会部記者の蜘手(くもで)美鶴(現カイロ特派員)らマスコミ関係者の姿も目立った。前日の通夜に参列したTBS報道局総合編集センター長兼編集部長の竹内明(現報道局長)、毎日新聞社会部副部長の坂本高志(現さいたま支局長)らも含めると20名を超えた。

 筆者は弔辞で、土持との30年にわたる交流や、土持が工藤会の摘発など検事の仕事を通じて社会に貢献してきたことを縷々述べた上、こう結んだ。

「土持さんの最大の功績は、記者を大事にし、真の意味で、物事を深く観察し多角的にものを見る優秀なジャーナリストを育てたことだと思っています」

 情報漏洩を恐れる検察は、検事や事務官に対して記者との接触を厳しく制限する。ところが土持は、訪ねてくる記者を基本的に受け入れた。それは、人を大事にし、人とのつながりを通じて世の中をよくしたいという彼の生き方そのものだった。可能な限り、検事としての説明責任を果たそうとし、そして記者にも報道で同様に説明責任を果たすことを求めた。まさに「検事はいい記者を育てる」を地で行く人生だった。

壊滅作戦の指揮官

「刑事司法で世の中が変わるのを実感した」

 15年、筆者は福岡地検検事正だった土持からこんな言葉を聞いた。冒頭で触れた工藤会壊滅作戦の捜査への感想である。

 北九州市に本拠を置く暴力団工藤会は、全国に24ある指定暴力団のうち唯一、特定危険指定暴力団に指定されている。当時は組員500人ほどの組織だったが、捜査当局によると、その狂暴性と反権力性は群を抜き、挨拶代を払わない事業者や警察の暴排運動に協力する市民に容赦なく銃口を向ける危険な存在だった。

 福岡県警は市民襲撃を「工藤会の仕業」と見立てたが、捜査は目先の事件処理や被害者警護に手をとられ、犯人の逮捕は進まず、市民も守り切れないというジレンマに陥っていた。襲撃はエスカレート。工藤会担当の元警部まで銃撃され、ついに堪忍袋の緒が切れた警察庁は抜本的な工藤会対策に舵を切る。

 13年1月に警察庁長官に就任した米田壮は工藤会を「凶悪テロ集団」と位置づけ、壊滅作戦に乗り出した。まず全国から延べ約2万人の機動隊員を派遣。繁華街の警戒や工藤会組員への職務質問を行わせた。これで組員らの動きを牽制し、その間に未解決事件の捜査に県警の捜査員らを集中させたのである。

 12年末の特定危険指定暴力団指定で、工藤会組員が市民に不当な要求をすれば中止命令を経ずに逮捕することが可能になっていた。

 検察側もこれに呼応。工藤会壊滅に向け、検察首脳は警察庁首脳に全面協力を約束した。そして14年9月、「工藤会壊滅作戦」開始。県警はトップの野村ら最高幹部を、16年前の、港湾利権絡みでの元漁協組合長射殺容疑で逮捕した。以後、検察側は暴力団の捜査や公判に通じた精鋭を福岡に次々と投入することになる。

 岡山地検検事正だった土持が福岡地検のトップである検事正に就任したのは14年11月。彼には、11年暮れから1年半務めた福岡高検次席検事時代、「工藤会にやりたい放題やられた」という苦い経験があった。リベンジのチャンスだった。

 土持は「こういう事件をやりたくて検事になった」と意気込んだが、暴力団捜査は一筋縄ではいかない。壊滅作戦の指揮官として体を張る覚悟が必要だった。

「警察官も検事も人の子。本人だけでなく家族を狙われると怯む。暴力団はそれを狙う。検事正に就任したてのころ、官舎の窓を開けるとバイクが走り去っていった。“見張っているぞ”という威嚇ですね」

 官舎の駐輪場では、工藤会捜査の主任検事のものと同型のバイクが焼かれたこともあったという。

 15年1月には、福岡高検検事長に、横浜地検検事正だった松井巖が起用された。土持と松井は、90年代半ばに司法研修所教官として机を並べて以後、肝胆相照らす仲だった。ともに特捜検事経験がありながら警察に親近感を抱いている点も共通していた。だが捜査への姿勢は真逆だった。

「土持は前のめりで“いまの警察の証拠でいけるから、やりたい”と言う。でも私は慎重派。“土もっちゃん、友だちでもそれは違う。やりたければ私を倒していけ”と言ったこともあった」(松井)

 絶妙のコンビだった。

 さらに、土持の人柄に惚れ込んで検事になった宇川春彦が福岡高検の公安部長(暴力団担当)にいたのも奇縁だった。宇川は検察でも有数の緻密な法律実務家で、検察の屋台骨を支えた。

 松井の検事長就任と時を同じくして、警察側も、福岡県警本部長に警察庁首席監察官だった吉田尚正を起用。要の暴力団対策部長には千代延(ちよのぶ)晃平(現群馬県警本部長)。刑事警察を支える実力派のエリートキャリア官僚を、検察のカウンターパートに据えた。

 当時、野村ら最高幹部が逮捕された工藤会は、「頭」を切り落とされ、のたうち回る大蛇の「胴体」そのものだった。「捜査非協力」を徹底的に叩きこまれている組員相手の、困難きわまる捜査や公判のマネージメントを彼らは担うことになったのである。

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