マラソン瀬古利彦が語った「びわ湖マラソン」の辛い思い出

スポーツ

  • ブックマーク

Advertisement

“びわ湖毎日”といえば、日本を代表するマラソンレースの一つ。また、長きにわたってオリンピックや世界選手権、アジア大会の代表選考レースでもあった。

 だが、選手たちが琵琶湖畔を走るのは今年が最後。来年からは大阪マラソンと統合される。

 大手紙陸上担当記者曰く、

「強い風が吹くコースのため、記録が出づらく、代表権を狙う有力選手に敬遠された。高速コースの東京マラソンが登場してから特にその傾向が顕著になった」

 そんな“ラストびわ湖”の出場選手が9日に発表され、日本陸連の瀬古利彦マラソン強化戦略プロジェクトリーダー(64)が会見した。

「大会が果たしてきた役割を問われた瀬古さんは“日本のマラソンの歴史を作ってきた凄い大会。円谷さん、君原さん、世界のアベベ、ショーターが凄い歴史を作ってきた”と絶賛。ですが、自身の思いを訊かれると“僕自身はいい思い出がない。辛かった思い出しかない”と苦笑していました」

 瀬古氏が出場したのは1988年大会の1回きりで、優勝を飾っている。それなのに“辛かった思い出”とはこれいかに?

「88年といえばソウル五輪イヤー。その代表選考は87年末の福岡国際で一発勝負のはずでした。ところが瀬古さんは負傷で欠場。ライバルだった中山竹通さんが“這ってでも出て来い”と言ったのは有名な話です」

 結局、瀬古氏は3カ月後に行われたびわ湖で優勝して代表に選ばれた。しかし、

「記録は平凡で、陸連には“瀬古びいき”と批判が殺到したのです」

 ソウル五輪は9位に終わり、瀬古は引退した。なるほど、辛い思い出であろう。

「まあ、そんな苦い経験があってか、今回の東京五輪ではMGCという新たな選考方式が瀬古さん主導で採用されたわけですけど」

 2月28日の“ラストびわ湖”には、そのMGCで優勝し代表に内定した中村匠吾(28)が出走するのだが、

「瀬古さんは“完璧な体調ではない、あまり期待しないで”と。実は、MGC2位で同じく代表に内定した服部勇馬(27)も、出走予定だった昨年末の福岡国際を故障で回避しています」

 3人目の代表である大迫傑(29)こそ不調は伝えられていないが、

「瀬古さんは、コロナのせいで選手は“頑張って”と言われる期間が1年長引き、みなストレスを抱えている、と庇っていました」

週刊新潮 2021年2月25日号掲載

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。