移住6年目の夫婦が「田舎の子育ては小学校まで」と思うワケ

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 都会人にとって田舎暮らしは、人とは異なるライフスタイルの追求なのかしれない。コロナ禍で「デュアルライフ(二拠点居住)」なんて言葉が流行りだしているのも、その証拠。しかし、田舎暮らしに求められる価値観は「みんな同じ生き方をしよう」。皮肉である。

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 東京都内からある地方都市に移住して6年目になる高階景子さん(仮名)ご夫妻は、長女の保育園卒園式準備の時に、田舎ならではの価値観に触れた。親が行う催し物の打ち合わせの場で、地元出身の母親のひとりが、

「とにかく、うちの年度だけ目立ってはまずいので、なるべく目立たないようにしましょう」

 と当たり前に言ったのだ。

 可愛い我が子の一大イベントである。思い出に残る、特別な卒園式にしてあげたいというのが親心というものだろう。しかし彼女は、「他の年の卒園式と違ったことをやるのはとにかくまずい」と言い張る。それに同じ地元出身の親たちも、誰も異を唱えないのだ。

 高階さんが根拠を何度尋ねても、明確な答えは帰ってこない。これまで、地元の人たちともそれなりに交流をしてきて、自分なりに田舎暮らしはうまくいっている方だと思うと語る高階さんでも、理解ができなかった。

 だが、高階さんは昨年のある事件を思い出したという。

 それは夕刻、保育園のお迎えのときの一場面だ。高階さんが娘を迎えに行くと、同級生のお父さんが、組担任の先生に激しく食ってかかっていた。高階さんと同じ、都会から移住してきた一家だという。父親は、

「同じじゃなきゃかわいそう、ってどういう了見だ?なぜ、同じじゃなきゃかわいそうと思うんだ?」

 と繰り返し先生に尋ねていた。果たして、何が彼の怒りを買ったのだろうか。

 のちに高階さんが本人から聞いたところでは、朝の登園時、親が書き込む「おむかえ予定」が発端だった。その欄には当日の迎えの時刻、そして迎えに来るのが「母親」か「父親」かを書き込むことになっていた。その父親はそこに、自分が迎えに行くという意味で〈父かえる〉と書いたのだという。

 いわく「菊池寛の戯曲『父帰る』にかけたジョークだった」らしいが、これをお迎え時、先生に咎められたらしい。「父とか母とか、皆と同じように書かなければ、お子さんがいじめられる。同じじゃなきゃ、お子さんがかわいそうでしょう」といわれ、なかば脅しのような言い草に、父親はカッとなってしまったそうだ。

田舎での子育ては…

 高階さんは苦笑する。

「まあ、地元の人にとって、個性はアダ、でしかありませんからね。彼らは良くいえば、古き良き価値観を守り続けてきた。悪くいえば、無批判に同じ方向に倣って、周りに合わせてきた。そういう人たちと、ちがう価値観を持つ都会からのよそ者たちとでは、決定的な断絶があって当たり前。そのギャップが決して埋まらないのが、田舎暮らしのすべての悲劇なのかもしれません」

 だから卒園式の一件で、なぜ?と地元の親に聞いてしまったことは「野暮でした」と反省しているそうだ。

「同じこと、変わらないことが、その土地で生き抜くための知恵なわけです。都会から来た人間が、こっちはどう?こんなのはどう?なんて言い出した所で、それは無駄ということです」

 田舎に移住して子育てをしたいと考えている親に、高階さんはこんなアドバイスを送る。

「『子供をのびのびと自然の中で育てたい』という気持ちはよく分かります。ただ、そんな楽しい田舎の子育ては、小学校に上がる前までではないですかね。小学校に上がると、いろいろな催しが増え、同調圧力をさらに意識した生活を強いられます。そのストレスは覚悟したほうがいい。結論としては『田舎の子育ては、子供が小学校に上がるまで。小学校に上がったら、都会で個性を伸ばしたり、国際的な教育を受けるべき』となります。少なくともわが家は、そうするつもりです」

 ただし、地元民でも、ひとつだけ「他人と違う」ことを求めるところがあると、高階さんはいう。

「車とホイールなんですよね。やれ足回りだオプションだと、無駄な車のアクセサリーばかりは、やたらとカネをかけていじり回して自慢しあう。あれを見ると、やっぱり地元民も、他人と違うことの楽しみは、知っているように見えますが……」

柴田剛(しばた・つよし)
地方移住や老後の住み替えなどについて取材するライター。

デイリー新潮取材班編集

2021年2月7日掲載

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