杉下茂が魔球“フォーク”を多投しなかった理由 味方から「一人で野球やるな」と言われて(小林信也)

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 杉下茂が日本で最初に投げ始めた頃、フォークボールは「魔球」と呼ばれた。ドラゴンズ・杉下といえばフォークボール、それが代名詞。ところが、杉下の自伝を読んで仰天した。

〈ワンバウンドになるような球は、どんな打者だって打てないに決まっている。打者が打てない球を投げるなんて卑怯なピッチングではないか。そんな気持ちが、心の隅っこにあった。〉

 そう書かれている。だから最初はほとんど投げなかったと。杉下の潔さに胸を衝かれた。1925(大正14)年生まれ、すでに95歳。長年の思いを込めて連絡すると、「いまはほとんど家から出ない。電話でならいいですよ」と快諾を得て、直接話を伺うことができた。

「明治大学の頃、『指が長いからお前なら投げられるだろう』と言われて練習し始めました。でも、指で挟んで投げるというだけで、詳しい握り方や投げ方は誰も知らない。最初は投げる前に後ろにすっぽ抜けたり、落としたり。怖くてバッターには投げられませんでした。それでも練習を続けるうちに、だいぶコントロールできるようになった」

 転機はプロ入り3年目(51年)春、セ・リーグの派遣でサンフランシスコ・シールズ(3A)のキャンプに参加したことだ。川上哲治(巨人)、藤村富美男(阪神)、小鶴誠(松竹)、球界を代表する選手の中にひとりだけ若い杉下が選ばれた。

 打撃練習で投げさせられた。アメリカの打撃練習は真剣勝負に近かった。投手もそこで自分の力をアピールする。ものすごいパワーで打ち返してくるアメリカの打者たちと勝負しながら、フォークボールを本気で投げてみようと思い立った。

「身体がゴッツイからね、この打者相手ならぶつけてもいいやと思ってね。この野郎ってくらい思い切り投げたら、ものすごく落ちた」

 打者の手前でストーンと、ほとんど直角に落ちた。投げた杉下自身が驚いた。

味方の野手に怒られ

「フォークボールは、思い切り腕を振ったら激しく変化するとその時にわかった」

 日本では、カーブの代わりにタイミングを外す程度の使い方しかしていなかった。だから相手打者は、「杉下は妙なカーブを投げる」くらいの認識だった。

 その杉下のフォークが、アメリカで大化けした。

 練習中、いつもは隣りのゴルフコースに行ってしまう監督のオドールが評判を聞いてわざわざ見に来た。

「オレが打席に立つから投げてみろ」、打席に立ったオドールにフォークを4球投げると、監督は叫んだ。

「もういい、わかった、打撃練習でフォークは投げるな、練習にならん!」

 その光景を川上、藤村、小鶴らも見ていた。それまで隠していたフォークボールを日本のライバルたちに知られた。後に川上が、「キャッチャーが捕れない球を打てるはずがない」と言った背景にはこの時見た衝撃があったのだろう。

 杉下が言う。

「フォークで三振に取ったあと、川上さんがそう言った。川上さんが言うとおり、あんなものにバットが触ったら不思議だよ」

 それでも試合ではあまり投げなかった。

「阪神戦では放った覚えがない。巨人戦で、今日は余計に放ったなあという日でも10球放ったら多い方。フォークばかり放ると味方の野手に怒られるんだ。『一人で野球やるな』『オレらにも野球やらせろ』って」

 一塁から西沢道夫、三塁から児玉利一らの先輩が怒鳴る。それでも三者三振に取ろうものなら、ベンチで殴られんばかりに怒られた。

「昭和27年だと思うけど、オールスターでフォークが話題になった。他チームの野手たちが面白がって、『オレに投げてくれ!』と僕にせがむんだ。そしたら」

 ドラゴンズで杉下のフォークを受けている捕手・野口明が血相を変えて叫んだ。

「やめてくれ! ケガをするから!」

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