レーサー「星野一義」が日本一速くなれた理由 「誰よりも臆病なんだ」(小林信也)

スポーツ 週刊新潮 2020年11月19日号掲載

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〈日本一速い男〉と呼ばれ、1970年代から20年以上も日本のモータースポーツを牽引した星野一義。

 その星野が最初にオートバイを買ってもらったのは14歳、中学生の時だった。

「乗りたくて乗りたくて、4日間、学校に行かなかった。買ってもらうまでは行かないと言ってさ」

 根負けした父が買ってくれたのがホンダベンリィC92。59年発売の排気量125ccのオートバイだ。価格は13万5千円。

 生まれ育ったのは静岡県安倍郡玉川村。星野は自宅近くの安倍川の川原を毎日夢中で走り続けた。マシンはすぐに泥まみれ。

「親父は『新車を粗末に扱うな』と怒鳴ってたけど、公道を走りたいわけじゃない。モトクロスがやりたい」

 14歳だから免許はない。捕まったことはないのか?

「捕まるわけないよ。白バイより速いんだから」

 星野が笑った。

「こっちは細い道をガンガン行くでしょ。50センチくらい段差があったって関係ない。自然に身に付けたテクニックで楽々昇ったり降りたり。そしたら白バイなんて付いて来れないよ」

 高校に入ってまもなく、藤枝にレースを見に行った。それでますます火が点いた。星野は、そのレースで魅了された当時のトップライダー安良岡健に手紙を書いた。

「弟子にしてほしい」

 手紙を読んだ安良岡は、「高校を卒業してから来なさい」と返信した。受け取った星野は舞い上がった。

「親切に返事をくれた。いい人だ、この人ならきっと弟子にしてくれる」

“オレは誰より臆病”

 1週間後「星野から突然電話が来た」と、昨年亡くなった安良岡がドキュメンタリー番組で証言している。

「いま東京駅にいる、高校を卒業する前に乗りたいって。すぐ迎えに行くと、東京駅に若い坊やがいた」

 星野は父の猛反対を押し切り、勘当同然で家を出てきた。母は財布に2万円を忍ばせてくれた。それが僕の「資本金」だった、と星野が笑う。

 2輪のカワサキコンバットなどを経て、日産で4輪レーサーになる。そこからの活躍は書けばキリがない。日本でF3000レースを走ったエディ・アーバインがF1初優勝を飾ったレース後、「日本にはホシノカズヨシというとんでもなく速いレーサーがいて、とても敵わなかった」と語った逸話がある。

 私は昭和の終わりころ、毎月、成城にあった星野の自宅マンションを訪ねていた。雑誌「GORO」のエッセイの聞き書きを担当していたのだ。自宅でくつろぐ星野は、激しさのかけらもなかった。穏やかそのもので、時折激しい胸の内を見せる以外、なぜこの人が誰よりも速く走れるのか、実感できなかった。今回、約30年ぶりに会って、そこを訊ねた。

「オレは誰より臆病なんだ。だけど高校をやめてレースに懸けて、勝つしかない。負けたくないから、勝負どころでアクセルを踏んじゃうんだよね。才能じゃない、走行距離は日本一、その自信はあった。日本一速い男じゃない、日本で一番たくさん走っている男なんだ」

 日産と契約した当初、サーキットで練習する時間が星野には十分与えられなかった。当時のトップレーサーが優先的に練習する。その間、星野はコーナーの陰に立って先輩たちの走りをじっと見ていた。いや、正確には、音を聴いていた。

「富士スピードウェイの100Rに進入する時、普通は4速から3速にダウンして少しアクセルを戻す。3速全開だ。音でそれがわかる」、星野が擬音でエンジン音をリアルに再現する。音真似が上手くて驚かされる。「ところが黒沢(元治)さんは違う! え? よし、オレも何があってもアクセルを戻さないぞ」。

 走行練習の終了間際、わずかに乗れた時間に星野は黒沢の走りを試した。

「そしたらアッと言う間にクラッシュ。ああ、オレって下手くそだなって。マシンを壊してひどく怒られた。一発で何千万円がパーだから。でも躊躇はない。オレだって勝負をかけてるんだ」

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