7回忌を迎えた「高倉健」 「実妹」も「チーム高倉」も呼ばれない異様な密葬の光景

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笠智衆に可愛がられた養女

 その町には、時代から取り残された地域特有の暗い空気が漂っていた。

 東京・板橋。都の住宅供給公社が1957年に造成した、背の低い長屋づくりの団地の壁はクリーム色の塗装が大分はげおちている。

「去年パジェロに乗ってやってきたけど、わたしの吸うタバコの煙を嫌がって、“もう来ない”とすぐに帰ってしまいました。珈琲セットとか果物を贈ってきたり、年賀状のやりとりはあったけど、最近はなくなりました」

 と、“娘”についてポツポツ話し出したのは、他ならぬ養女の実父・久夫さん(80)である。

「で、高倉健ですか。養子になったというのは聞いてなかったです。そう言えば2年くらい前に来たときは、30万円が入った封筒を置いて行きました。何の仕事をしてるんだろうと心配したりもしたけど、わざわざ本人に聞いたりなんてしませんよ」
 
「妻、つまりあの子の生みの親とは30年くらい前に別れましたが、あちらと娘はウチよりも付き合いが深いようです。芸能界ですか。それは娘が千代田女学園という学校にいた18歳のときにスカウトされてね。でもわたしとしては、学校で『校長賞』も獲るほど勉強に打ち込んでいたから、てっきり学業を優先するかと思っていたんです」

 もっとも娘の方は芸能界への思いを断ちがたく、進学した短大を中退して20歳でデビュー。最初の仕事は、民謡歌手のアシスタントとして全国を行脚するというもの。そのうち、橋田壽賀子さんや山田太一氏といった名脚本家のドラマで重要な役も回ってきた。

「俳優の笠智衆さんと共演してから、ずいぶん可愛がってもらったみたいです。特にあれだこれだって本をいろいろと勧められて家で読んでいました」

健さんが、“家の仕事をしてくれる人を探している”と話していた

 芸能界の仕事からは次第に遠のくのだが、

「26歳くらいのときに結婚しました。旦那は日仏ハーフで、その父親はWHOの事務方トップだったかな。赤坂の日枝神社での立派な式でしたよ。でも……」

 と言葉を継いで、

「稼ぎをあてにするだけの夫に愛想を尽かして、1ヵ月くらいでウチへ戻ってきました。それから、ホテルについて書いたり話したりっていう仕事もやるようになった。笠智衆さんのアドバイスのお蔭だとわたしは思っていますよ」(同)

 仕事は軌道に乗って3冊の著書を上梓、世界の一流ホテルを紹介する「THE HOTEL」(テレビ朝日系)という番組のプロデューサーも務めた。

 他方で、

「2回目の結婚は、仕事で知り合ったNHKのプロデューサー。それも1年くらいでダメになっちゃった。相手の男もバツイチだったんですが、離婚相手への養育費や慰謝料ばかりにカネを使って自分に回さないのを不満に思ったみたい」(同)

 どうやら良い縁には恵まれなかった養女が健さんと出会ったのは、19年ほど前のことである。

「健さんが、“家の仕事をしてくれる人を探している”と話していたのを記憶しています。で、あいだを取り持ったのは、両者と親しい鮨屋の大将だったかな。健さんに気に入られ、世田谷区瀬田の自宅に住みこむようになったんです」

 とは、先の映画関係者。

「あの家には敷地内に2つの建物が別々に建っていたんですが、彼女が住むようになってしばらく経ち、棟同士をつなげる工事をして中で往来ができるようになりました」

 たとえばその工事が物語るように、単なる身の回りの世話役からより重いものへと立場を変えながらも、彼女の存在は対外的には長らく伏せられた。

 それは、健さんの24時間をサポートする「チーム高倉」に対しても、である。

 このチームを構成するのは、1年365日、健さんの話し相手となる理髪師だったり、幾台ものクルマの管理をするメカニックだったりと、全てを健さんに捧げてきた男たちである。

 結果的に、「チーム高倉」や長年可愛がられてきた小林稔待らは、先に触れた親族同様、密葬に列席することは叶わなかった。それだけ、養女との距離があったということなのだろう。

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