「相棒」を蹴って石垣島へ、最後に水谷豊さんに送った手紙…高樹沙耶が語る芸能生活30年

エンタメ 芸能 2020年11月09日

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 今やすっかり「大麻合法化活動家」という肩書きが板についた高樹沙耶(57)だが、元々は、大手芸能事務所「オスカープロモーション」に所属する売れっ子女優だった。なぜ彼女は、これまで築いた地位や暮らしを自ら放棄し、「大麻」へと行き着いたのか。彼女が住む石垣島を訪ね、30年間の芸能生活を振り返ってもらった。(「“大麻ツイート”をやめた理由をお話します……高樹沙耶が石垣島で語ったホンネ」「高樹沙耶が2年前に再婚していた 本人が語った“出会いからプロポーズまで”」の続き)

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「17歳の頃、原田真二さんのコンサートを観たのが芸能界を目指したきっかけです。舞台で輝く彼の姿を観て、私もやってみたいって」

 当時、高樹は静岡県浜松市で暮らす女子高生だった。しばらくして、ある募集広告が彼女の目に入る。ティーンエイジャーに人気があった女性ファッション誌「mc Sister(エムシーシスター)」(2002年廃刊)に掲載された「モデル募集」の告知であった。

「いくつかのモデル事務所が掲載していたんですが、なぜかオスカーを選んだんです。写真と応募書類を送ったら声がかかり、面接を受けることになった。両親は幼いときに離婚し、母親に育てられたので、早くおカネを稼いで助けたいと思っていました。母は『詐欺なんじゃないの』と心配しましたが、社長がちゃんと口説いてくれて、最終的には『好きだと思う自分の道を進みなさい』と承諾してくれたんです。それで、上京することになりました」

 社長というのは、“オスカー帝国”と呼ばれる同社を一代で築き上げた古賀誠一氏(現・会長)である。だが、

「私の場合、古賀社長の目に止まったものの、認めてはもらえなかったんです。当時、オスカーはまだモデル専門の事務所で、これから芸能部門に力を入れていこうというところだった。その頃、『パンジー』という3人組のアイドルユニットを作って売り出すことになったんですが、最終の5人まで残ったものの、結局、選ばれたのは、北原佐和子ちゃん、真鍋ちえみちゃんら3人で、私は落選してしまいました」

 その理由については、

「生意気だったから。当時から髪型はワンレンで、アイドルっぽさがなかった。母子家庭が影響してか、気を張って生きなきゃみたいなところがあったんですね。ただ、あのときは、“早く売れたい”一心だったんで、先にテレビに出て活躍している同年代の子たちを見て悔しかった」

19歳で挑んだ一糸まとわぬ演技「沙耶のいる透視図」でデビュー

 だが、まもなく高樹の運命を変える作品と出会うことになる。1983年、19歳で主役を務めた映画「沙耶のいる透視図」(公開は1986年)だ。

「『プレイボーイ』のグラビアに出ていたのを、プロデューサーが見て、この娘を使いたいって言ってくださった。そして、映画出演とセットでオスカーを退社し、『プルミエ・インターナショナル』という映画製作会社に移籍することになったんです。この作品がきっかけで、『高樹沙耶』という芸名もできた。それまでは、本名の益戸育枝でやっていたんですが、芸能界でやっていくには地味かなと思っていたところでした。役名から『沙耶』という名前をもらい、苗字の『高樹』は、プロデューサーが画数を調べてつけてくれました」

 同作で高樹は一糸まとわぬ姿になって、名高達郎と激しいシーンを演じたが、

「芸能界でやっていくからにはしょうない、くらいな感じでした。もちろん、当時はいまより一糸まとわぬ姿になる抵抗は大きかった。ただ、私の場合、両親が結婚で失敗しているので、あまりお嫁さんに夢を抱いていなかったんで、『ま、いいか』って」

 同作は興行的には成功とは言えなかったが、芸術作品としては高評価を受けた。一方、続いて出演した柴田恭兵との共演作「チ・ン・ピ・ラ」は大ヒット。高樹は女優としての道を歩き出すことになる。

「もう必死でしたよ。初めてラケットを持たされてコートに立たされたような感じ。あの頃の俳優さんたちは、みんな劇団で下積みしてからデビューという時代でしたから、私みたいにモデルからいきなり映画デビューなんて珍しいケースだった。『沙耶のいる』で、加賀まりこさんにご挨拶にいったときのことは忘れません。『新人の高樹です。よろしくお願いします』と頭を下げると、監督チェアみたいなのに座っていた加賀さんは、プロデューサーを一瞥して、『この娘が? 3人の男性から愛される役の割にはねぇ』って。ブルっちゃいましたよ」

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