「相棒」を蹴って石垣島へ、最後に水谷豊さんに送った手紙…高樹沙耶が語る芸能生活30年

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「随分、男に貢がせました」 イケイケだった20代

 だが、2作の映画で名は売れたものの、後が続かなかった。

「移籍した事務所は映画製作会社だったんで、あまり売り出しがうまくいかなかったんですね。結局、3〜4年してまたオスカーに戻ることに。その後、『オールナイトフジ』(フジテレビ)のMCなど、いいお仕事はもらってはいたんですが、ちょっと納得いかないことがあって、また辞めることになり、今度は『ケイダッシュ』さんにお世話になることになりました」

 20代で事務所を転々とするさまは、“我が道を進む”いまの彼女の姿を彷彿とさせる。

「この時代はイケイケでしたしね。もっと有名になりたい、もっとお金持ちになりたいって、欲の塊でした。ガラス張りの高級マンションに住んで、シャネルで着飾り、ベンツに乗って。正直、モテましたよ。男性に貢がせたり、私生活もハチャメチャ。逮捕後に、そのあたりをボロクソに書かれましたが、まぁ仕方ないくらい遊んでいたのも事実」

 だが30代にさしかかり、旅番組に多く出演するようになったことが契機で、高樹の人生観は大きく変わっていく。

「朝日放送の『朝だ!生です旅サラダ』(朝日放送テレビ)では、北欧、リビア、南アフリカ、ケニアなど世界各国を回りました。あの頃はテレビもまだ力があって、ビジネスクラスで豪勢に、2〜3週間くらい行かせてもらえたんです。特に大きな転換期となったのが、02年頃、日本テレビの特番のロケでオーストラリアに行った経験でした。『パーマカルチャー』という農業をしながら自然と共存し、持続可能な暮らしを築いていこうとしている人たちと触れ合って衝撃を受けた。いまの私の暮らしの原点を見つけたのです」

 放蕩三昧だったこれまでの自分を、見つめ直したという。

「高い洋服をいくら買っても、まったく満たされないって。消費ばかり繰り返し、おカネに縛られているような自分の生き方がバカバカしく思えて。イルカセラピーをやっていらっしゃる女性にも会ったんですが、私もあんなふうに海に潜ってイルカと一緒に泳ぎたいって思いはじめたんです」

 ちなみに、この頃、海外で大麻の味を覚えたという。

「まだこの頃は、バレたらヤバいって、恐る恐るでした。海外に行ったときだけ、ちょいちょいやっていた程度。日本で吸うようになったのも、もっと先の、石垣島に移ってからのことです」

結婚と離婚。芸能界に区切りをつけてハワイに移住

 ちょうどその頃、私生活でも大きな変化があった。35歳で、シンガーソングライターの中西圭三氏と結婚。だが長続きせず、2年で離婚する。

「芸能界は、みんなおカネもあるし、ルックスもいいから、男女の出会いやトラブルも多いんです。そんなごちゃごちゃした人間関係も含めて、嫌になった。私が求めていた理想って何なんだろうと、ふつふつ考えはじめるようになって。じゃあもうやめようって、ハワイに移住したんです」

 移住後、高樹はハワイ在住のカメラマン兼ダイバーの菅原真樹氏と出会い、フリーダイビングを始めた。02年11月に行われたワールドカップでは、水深53メートルの日本新記録を樹立。菅原氏とは同棲し、婚約もした。

 都会から離れ、自然と共存する新たな暮らしを始めた高樹であったが、完全に芸能界と縁が切れたわけではなかった。彼女と芸能界をつなぎとめたのは、ちょうどその頃スタートした、ドラマ「相棒」(テレビ朝日)だった。

「『相棒』は、単発の2時間ドラマで始まったんですが、人気が出て連続ドラマ化することになった。ちょうどそのタイミングでの移住だったんです。テレ朝からも引き続きお願いしたいと言われ、3カ月に1回くらい日本に戻って、まとめ撮りすることに。もちろん、自分でも完全に芸能界と縁を切ってしまうことに、経済的な不安がありました。実は、この間はケイダッシュを辞めて、フリーで仕事をしていたんです。ただ、これが本当に大変で……。ギャラの交渉からスケジュールの管理まで全部自分でやらなければならなく、事務所のありがたみを痛感した日々でした」

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