『スパイの妻』で蒼井優を堪能、映画を劇的に弾ませる映画女優の芝居とは

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現在公開中『スパイの妻』★★★★☆(星4つ)

 女優・蒼井優の真骨頂は、映画の中での“劇的”な瞬間を演じることにあるのではないか。

『スパイの妻』の舞台は、1940年、太平洋戦争前夜の神戸。蒼井演じる聡子は、貿易商の夫・優作(高橋一生)と共に大邸宅に住まい、洋装に身を包んで暮らしている。すぐそこまで戦争が迫っている日常から隔絶したような生活を、彼女は送っているようだ。六甲山中を散策している時に彼女は偶然、幼馴染の津守(東出昌大)と再会する。いまや彼は憲兵分隊長として、思想を統制する立場にある。

『スパイの妻』は聡子、優作、津守の関係の劇として、進行する。非情な運命論者のような手さばきで監督の黒沢清は次々と、映画の局面を開いてゆく。その世界の登場人物たちはただ、なされるがままだ。

 そのことを完全に理解している蒼井優は、人間の感情で事態を打開しようとはしない。ギリギリまで芝居を抑制している。そして――映画が決定的に転換する瞬間に、女優としてすべてを賭けるのだ。

 出張先の満州で優作は、帝国陸軍による生体実験について知る。その非人道的行為の証拠を入手した優作は、それを世界に公開しようとしていた。あまりに危険な夫の賭けを、聡子は止めようとする。しかしコスモポリタン、世界市民を自認する夫の決意は揺るがない。それならば……

「あなたがスパイなら、わたしはスパイの妻になります」

 決然としたまなざしで、聡子は宣言するのだ。

「スパイの妻」になった聡子は彼の地、アメリカのサンフランシスコでの合流を夫と約束をし、密入国を図る。生体実験を記録した、あのフィルムを携えて。けれども、出航を待ち貨物室のコンテナに身を潜めていた聡子は、踏み込んできた憲兵隊に検挙されてしまう。

 東出昌大演じる憲兵分隊長・津守は職務として、容赦ない訊問を予告する。細菌兵器の生体実験を記録したあのフィルムの上映を求める聡子。

 けれども……スパイのぺてんにスパイの妻は、かけられていた!

 スクリーンに映し出された“映像”を目の当たりにし、たがが外れたようにバカ笑いする聡子。

「……お見事です!」

 詳しくは映画をご覧になっていただきたい。この「劇的瞬間」に蒼井優は、すべてを投じて見せた。

黒沢清作品の中の蒼井優

 蒼井は、とくに黒沢清監督の映画でいつも劇的な女性を演じてきた。

『岸辺の旅』(2015)は、三年間行方知れずだった元歯科医の薮内優介(浅野忠信)が不意に、置き去りにしてきた妻・瑞希(深津絵里)の下に帰って来るところから始まる。どこかで死んでもう幽霊になっている優介は瑞希を連れて、これまでの放浪の跡を辿ってゆく。そんな旅の途上で蒼井は、優介の愛人だった看護士・松崎朋子として登場する。

「私、実は薮内先生がどういう方と結婚されているのかずっと知りたかったんです。想像通りの方で……ちょっと拍子抜けしましたね」

 蒼井演じる明子の先制攻撃に、食い下がる瑞希。

「夫婦の関係ってすごく複雑で、なかなか他人にはわかりづらいんじゃないかと思って」

「わかりますよ。私も結婚してますから。秋には子どもも生まれますし、病院は来月で辞めることにしました。きっとこれから死ぬまで平凡な毎日が続くんでしょうね。でもそれ以上に何を、求めることがあります?」

 妻と愛人の関係が逆転するこの「劇的瞬間」、蒼井優はまっすぐな視線で深津を射抜き、不敵な笑みさえ浮かべていた。

 同じく黒沢清監督の『贖罪』(2012)での蒼井優の人生は、忌まわしい事件が起きた“あの時”からずっと、止まったままだった。

 田舎町の小学校で、少女が殺害される。その現場にいた紗英(蒼井優)を含む同級生は、友だちが連れ去られるその現場にいた。しかし少女たちは犯人の顏の記憶を、どうしても手繰り寄せることができない。事件は迷宮入りしてしまった。被害者の母・足立麻子(小泉今日子)は彼女たちを、娘がいなくなった家に招く。

「私はあんたたち、一人ひとりのことを一生、忘れません」

 事件と並行してその土地では、あちこちの家庭からフランス人形が盗まれる珍事が、多発していた。

 15年後――高校卒業後、紗英は故郷を離れ、東京で暮らしていた。徹底して男を遠ざけて。しかしそんなある日、職場の社長から薦められて彼女は、地元・上田の大企業の跡継ぎ息子・孝博(森山未來)と見合いすることになる。

 紗英への愛を打ち明け熱心に求婚する孝博に、紗英は告白する。

「いままで生理になったことが、一度もありません。理由は分かってるんです。あたまの奥で、からだが女性になることを、拒んでいるんです。だから子どもを産むことも、できません」

「それ……全然問題にならない」と、きっぱりと孝博は言った。

 ふたりは結婚する。しかし――孝博の時間もまた“あの時”で、止まっていたのだ。毎夜、紗英に極上のドレスに着替えさせて、永遠の美しさを愛でる。孝博はそれからうっとり、眠りに入ってゆくのだ。15年前、次々消えていったフランス人形の行方をずっと、孝博は追いかけていた。そしていま彼は、最高の品質のそれを手に入れた。大人にならない人形を彼は、ガラスケースに閉じ込めるようにして。

「やっぱりこれって、普通じゃないよ」

 孝博との寝室を飛び出した紗英は廊下を走って、玄関から外へと逃れようとする。と次の瞬間、彼女は立ち止まる。ふくらはぎを伝って大量の血が床に、流れ落ちていく。

 あまりに遅い初潮を、紗英は迎えたのだ。黒沢清映画にふさわしい「劇的瞬間」。

 そこにまた、蒼井優がいた。

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