自ら現人神を名乗り、横綱・双葉山を手玉に取った新興宗教「女性教祖」たち

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不世出の天才棋士も“入閣”させた豪華な顔ぶれ

 今世紀に残された最大の課題は宗教問題である――同時多発テロを目の当たりにして、改めてその感を強くした人も多いだろう。カルト的な新興教団の暴発はテロリズムに直結するケースが多いが、更年期の女性が突然神がかり、常軌を逸した行動に出るのが日本の新宗教の特徴だ。女性教祖が強烈なリーダーシップを発揮して世を騒然とさせた教団の歴史を検証する。

(※「週刊新潮」2002年1月3日号に掲載された記事を編集し、肩書や年齢などは当時のものを使用しています)

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「宗教は民衆のアヘンである」といったのはカール・マルクスであるが、このアヘン、効きすぎると途方もないことになるのは連日連夜の報道でご承知の通り。

 しかし、アラーだって、いくら何でもハイジャックした旅客機でツインタワービルに突っ込めとは命じなかったはずだ。やはり、アルカイダはビン・ラディンというカリスマの指導力を潤滑油に、イスラムの教義から都合のよい部分だけをピックアップした巨大なカルトと考えるべきであろう。

 一方、日本の新宗教は、オウム真理教の暴発以来、いたっておとなしい。しかし、それ以前は百花繚乱、まことに賑々しい限りであった。その中でも、ユニークさにおいて際立つ二つの教団を採り上げよう。

 戦時下の昭和16年頃、国電蒲田駅近くの女塚に加持祈崎で病気を治すと評判の長岡良子という女性がいた。

「あのお方が急に脚が痛いとおっしゃると、しばらくして脚の悪い方が治癒を願いにやってくるのです。歯が痛いと泣く子の頬にお手を当てると、お指が険しく爪を立て、その子の歯痛は収まってしまう。あのお方がすべての因縁をお背負い下さったからです。目の前で、本当に数々の奇跡を見せていただきました」(当時を知る信者の一人)

昭和の元号を使うことを信者たちに禁じ、「霊寿」と改元、独自の「璽宇憲法」を発布

 長岡良子は岡山の農家の出で、本名を奈賀といったが、熱烈な皇室崇拝者だった彼女は、良子と書いてナガコと読ませた。

 良子皇后に自分をなぞらえたらしい。

 そして21年、人間宣言によって昭和天皇が現人神(あらひとがみ)の座を降りた時、良子は我こそがその座を受け継ぐ者だと主張したのである。

 長岡良子が自ら璽光尊(じこうそん)と名乗ったのは21年5月1日。

 この日を境に昭和の元号を使うことを信者たちに禁じ、「霊寿」と改元、独自の「璽宇憲法」を発布した。さらに教団幹部を首相や大臣に任命し、「璽宇内閣」を組閣した。

 それだけなら、まあ、お笑い草として放っておけばよい。

 だが、この内閣に厚生大臣として入閣したのが、あの無敵の横綱双葉山だったことから、「璽宇(じう)」教の名は占領下の日本にあっという間に広まった。

 教団には天才棋士の名をほしいままにした呉清源(蔵相)もいた。

 史上最強の横綱と不世出の天才棋士を入閣させた「璽宇内閣」は、時の吉田内閣よりも豪華な顔ぶれだったという他なく、勢いを得た璽宇は最盛期には10万人を超す信者を獲得したと言われる。

 改元から2週間後、璽光尊は2人の巫女をGHQ本部に派遣する。

 巫女たちは、畏れ多くもマッカーサー元帥に対する参内命令を記した「御神示」を携えていた。

〈日本はいま世直しの時代が始まった。汝マッカーサーは母国の栄光のため、神の光を受けねばならない〉

 振袖姿の巫女たちは、なぜか誰何(すいか)されることなくGHQ本部に入り、総司令官室前へ行く。廊下で警備員と30分ほど押し問答をした挙げ句、「進呈!」と叫んで元帥に御神示を手渡したのである。

 マッカーサーが参内しないことに業を煮やした璽光尊は、その後も2度にわたって巫女たちに御神示を届けさせている。

「天変地異で地球の人口は三分の一になる。君だけは救いたい」と双葉山

 一人が高級車の前に立ちはだかって神楽を舞い、今度も御神示を手渡すことに成功した。

 新憲法に「信教の自由」を盛り込むことを予定していたマッカーサーはコーンパイプをふかしながら、ただ面白そうにその様子を眺めていただけだが、すでにこの教団の危険さに気づいていた。

 21年の暮れ、璽光尊は信者を引き連れ、金沢の信徒宅に遷宮する。

 無敵の横綱と天才棋士は、この街で必死の布教活動に身を投じた。

「天璽照妙」を唱え、奇妙な文言を書いた幟を手に街中を練り歩く2人の姿は人目を引かずにはおかなかった。

 朝日新聞記者の藤井恒男が、旧友であり、前年の11月に引退相撲と断髪式を行った双葉山から呼び出されたのは昭和22年の年明けだった。

 両国のホテルを訪ねた藤井は、金沢から上京した友人の表情に異様なものを感じ取った。

「御神示を受けてやって来た。1月15日に起こる天変地異で地球の人口は三分の一になる。君だけは救いたい」

 双葉山は真剣な眼差しでそう言うと、葉書大の紙きれを取り出した。それには黒で「梅」と書かれていた。

「天変地異が起きたあとに流通する松竹梅の紙幣だ」

 教団が発行した紙幣だと聞かされて、藤井は言葉を失った。

「これからどうする気だ?」

「金沢へ戻る」

「何時の列車だ。切符は?」

「神の命令で上京したのだから、切符など持っていない」

 全てこの調子だった。藤井は双葉山に切符を買い与え、出張の許可を得てから金沢市の「璽宇皇居」へ向かった。

摘発は先日まで現役だった最強の横綱、双葉山との格闘を意味していた

 藤井が書いた22年1月20日付の署名記事にはこうある。

〈寒々とした大きな板の間にぽつんと一つある机に色白の貴公子が控えている。これが問題の棋聖呉八段である。(中略)呉八段なかなかいんぎんな物ごしで記者を二階に案内してくれる。ちょうど元双葉関は東京、横浜方面に起こるという天変地異救援にかけつける準備に大わらわ。(中略)

――やあ、いよいよ天変地異かね。しかし、15日には起きなかったようだが。
「15日ではない。近々のうちだ。いよいよ東京出陣だよ」

――本当か。戦災でやられ、また天変地異は困ったものだ。

 など語りながら荷造りの出来上がるのを待つ。以下は同氏との高天原問答である。

――天変地異なんか信ぜられないよ。
「そんなことをいう君は救われない人間の一人だ。君は霊の刑務所ゆきで、一千万年の牢獄だぜ」〉

 呉清源にたずねても同様で、

「碁など打っている場合ではない」という。

 異様な雰囲気の中、「出御」の声がかかり、薄化粧をした璽光尊その人が巫女を伴って現れる。

〈「私が問題の璽光尊です」と長岡良子さん(45)が、斜め左の椅子に腰かける。

以下、神様のお言葉、

「ここが高天原です。世直しの本部です。人間の霊がサビているので、天変地異を起こして人心の改革をやります。双葉は最側近の一人です。天変地異もこらえにこらえましたが、もう許すことが出来ないので近く起こします」

“拝謁”は約五分間で再び“御座所”へ“入御”になる。記者は何が何だか夢心地で高天原を辞去した。記者は、一干万年の霊の刑務所行きを覚悟で記事を書くのである〉

 朝日とは思えないほど楽しい記事だが、GHQの意を受けた上層部から璽宇教摘発の指令を受けていた玉川署の警官たちにとっては笑い事ではなかった。

 引退したとはいえ、摘発は先日まで現役だった最強の横綱、双葉山との格闘を意味していたのである。

「七時頃津波で大変で御座います。東京は跡かたもなくなりました」

〈遂に“璽光尊”検束 双葉山ら最後の大あばれ 鏑木玉川署次席(柔道四段)の殊勲〉

 1月22日の紙面で、北国毎日新聞はそう報じた。この時の事情についても、やはり朝日新聞が詳しいが、今度はやや迫力に欠ける。

〈双葉山関は国民服の上にジャンパー、巻ゲートル、防空ずきんというものものしいいでたちで階上の神前で鏑木隊長と押し問答していたが、ラチがあかずと見るや一尺六寸余の太鼓のバチであばれ始めたので殺気立ち、柔道四段の鏑木警部はヤニワに天下の横綱にいどんで左四つ、むんずと組付きよってたかってようやく組み伏せ、大力をくじかれたころ警官隊に抱えられて消防自動車に運び込まれそのまま玉川署へ持って行かれた〉

〈(中略)その後も階下では呉清源氏をはじめ四、五人の信者が“天璽照妙”を唱えながらうろうろしている。指揮の鏑木警部は双葉山検束のときに右薬指をかまれて負傷した〉

 連行された璽光尊と刑事とのやりとりも出ている。

〈問 今夜のことをどう考えますか。
答 誠に天照大神に申し訳御座いませぬ。こうして深夜戒めを受けとんだ罪を作りました。まだまだ、力がたりません。

問 今日はなにか出来事がありますか。
答 はい、御座います。

問 天変地異ですか。
答 そうです。東京は今夜(二十二日)七時頃津波で大変で御座います。東京は跡かたもなくなりました。

問 ところが、たった今東京へ電話で聞いてみたら今日は風は少しあったが、快晴でなに一つ異変もありませんよ。

答 はい。神様のお告げの随意(まにま)に申し上げるので、神様があるとおっしゃればある、ないとおっしゃればないと申し上げるので御座います。

問 自信がないのですか。これから先のことは。
答 けがれた人々の心を清め、世直しを致さねばなりません〉

 奇妙なやりとりであるが、一体なぜ逮捕されたのか。

双葉山は教団を離れ、時津風親方として日本相撲協会の理事長となる

 警察は食糧管理法違反をあげた。その後、璽光尊は金沢大教授の鑑定で「妄想性痴呆の心の病」と診断されて釈放。他の信者も不起訴となった。これが「金沢事件」である。

 事件後、双葉山は教団を離れ、時津風親方として日本相撲協会の理事長となる(昭和43年に他界)。

 金沢を追われた教団は山中湖畔、八戸、箱根などを転々とし横浜へ辿り着くが、箱根を最後に呉清源夫妻も璽宇を離れる。

 呉清源の妻和子は、神のお告げを受ける巫女であり、教団にとっては欠くべからざる存在だった。巫女である和子を失った教団は求心力を失っていく。

 摘発により、璽光尊こと長岡良子が、離婚歴がある元看護師であることが発覚した。

〈「(良子は)子供の頃から弘法大師に凝っていた。大正十年に結婚した頃は普通の女と何ら変わりなかったが、結婚生活の間、時々発作を起こし、仮死状態に陥ることが度々あった。その頃から夫婦生活を極度に嫌うので別れました」〉(毎日新聞/昭和22年1月24日)

 前夫は、押しかけてきた新聞記者にそう吐き捨てたが、横浜市に残る少数の信者たちにとって、璽光尊はいまも絶対の存在である。

「璽光尊さまが、お隠れになってから、若い方には俗に戻ってもらい、それまでの共同生活を解散しました」

 そう話すのは、59年に璽光尊が他界した後、教主の座を受け継いだ勝木徳次郎(93)――かつての「璽宇内閣」の総理大臣であり、璽光尊の側近中の側近だった人物である。

「信者から提供された土地もほとんど売り払いました。私が総理だとか、呉清源が蔵相だとか、色々なことが書かれましたが、あれは記者が面白がって書いたこと。私設紙幣も、信者から受けた寄進のお礼に松竹梅と私が書き、お渡ししたものです。いま収入と呼べるものは、私の名前でもらっている年額40万円余の年金くらいですよ」

二者択一を迫る、ちょっと変わった神だった

 北村サヨは大変な毒舌家だった。

 とはいえ、生まれつきそうだったわけではない。

 明治33年に山口県柳井市の農家に四女として生れたサヨは、21の年に田布施町の北村清之進のもとへ嫁いだ。この時、清之進は38歳で、サヨは6人目の妻だった。

 姑のタケは異常なほどの吝嗇家だった。

 毎年5月の田植えの前に嫁を取り、田植えが済むと、朝から晩まで嫁をいびり続けた。

「嫁に食わせたり、着せたりするのが惜しい」からだった。

 秋の刈り入れ前に再び嫁を取り、終われば同じようにいびり出した。

 何しろ、サヨが嫁ぐ前の3年間に、5人の嫁が嫁いでは出ていったというのである。

 しかし、サヨは留まり続け、姑が91歳で亡くなるまで仕えた。これも「行」であったと後にサヨは述懐している。

「天照皇大神宮教」の本部が編纂した『生書』によれば、北村サヨに神が宿ったのは昭和19年11月のことである。

 しかし、それはサヨに二者択一を迫る、ちょっと変わった神だった。

〈「おサヨ、おれのいうことを聞かないのか。そんなら、おれが逃げる時には腹をけり破って内出血、頭をけり破って脳溢血、どちらがよいか」

 腹と頭が痛みだす。

「ああ、痛い」と苦しむサヨに「それではいうことを聞くか」とせまってくる。せっぱつまって「聞く」と〉

 この時から、サヨの「胎(はら)」は、言いたい放題のことを言うようになった。当初、その「胎」は「とう病」と名乗っていたが、後に「口の番頭」となり、最終的に自らの正体を「宇宙絶対神」といったという。

分かりやすく言えば『エクソシスト』の世直し版

 サヨの胎は俗世間を罵り続け、やがて夫にも毒舌を浴びせるようになる。

「清之進、われはへまぬるいおやじじゃのう。おサヨが間男して子供をこしらえたら知るじゃろうが、おれみたような世界を股にかけた大神がおサヨの胎にすわったのを知らんいうたら、われもたいがいへまぬるいのう」

 夫はぎょっとしたが、毒舌をまき散らすのはサヨの胎であって、普段はごく当たり前の農婦だった。

 当時のサヨは一種の二重人格だったという見方が一般的で、途方もないことを言い出す胎にサヨ自身も驚いていたフシがある。

「分かりやすく言えば『エクソシスト』の世直し版」(宗教研究家)だったのである。

 昭和21年、好戦的なサヨは「生長の家」の谷口雅春に議論をふっかけ、意気揚々と山口へ戻る。が、帰郷した彼女を待っていたのは食料緊急措置令違反での逮捕だった。

 終戦直後の秋の刈り入れ時に、こう言ったのを聞き咎められたのだ。

「今年の米は国賊の蛆虫には食わせぬ。新国日の本神の国の国救い舞をする者だけに食わしてやるのじゃから一合たりとも供出しちゃならんぞ」

 収穫後も頑として米を供出しなかったために逮捕されることになったのだが、本人は平然としたもので、警察でも得意の歌説法を披露した。

「(略)国賊の蛆が、ちょびひげはやして洋服着て、官庁官庁の役人というて、威張っちょるが、天の使いのおサヨは留置場ぞ。ああ面白い世の中じゃ」

検事までが「憂国の烈女」であるサヨに帰依するようになっていた

 そう言って踊るように歌った。「踊る宗教」と呼ばれる所以だが、法廷でも毒舌を振るい、朗々と歌い上げるサヨに、

〈判事も検事も、立会書記も新聞記者もこの光景に、ただ唖然として聞き入り眺めいるばかり、大神様の声のみが廷内を嵐の荒れ狂うように、ひびきわたるのだった。不思議なことに裁判長は一言の制止もせず、大神様が歌い終わられるまで、静かに耳を傾けていた〉(『生書』)

 サヨは執行猶予付の有罪判決を受ける。

 が、2年後、東京・神田で行われた説法に、サヨを起訴した渡辺留吉検事が現れた。渡辺はこんなプラカードを手にしていた。

〈偉大なるX現る。来たり聞け、大神様の救国の雄叫びを〉

 何と検事までが「憂国の烈女」であるサヨに帰依するようになっていたのである。

 歌い踊り続け、時には怒った群衆に殴られもした北村サヨは昭和42年没したが、「天照皇大神宮教」は国内に46万人、海外にも18万人あまりの信者を抱える一大教団に成長した。

(敬称略)

週刊新潮WEB取材班

2020年10月10日掲載

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