元世界王者が語る「ルービックキューブ40周年」 コロナ禍で訪れた“第3次ブーム”

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キューブは手術に似ている

秋元:中学3年だったかな、学校のマラソン大会でバス移動の時に同級生が持っていたのを触らせてもらったのがきっかけです。不思議な物体だなあと思いました。それで自分でも買って、友達に教えてもらったり、大ブームだったから週刊誌にも“虎の巻”が掲載されて、それも入手しました。ただ、それらはベストと言える解法ではなかった。

――第1回日本キュービスト大会では、秋元少年は5位だった。

秋元:帝国ホテルで開催されて、おそらく世界で初めての大きな大会だったと思います。1位の賞品は乗用車で、エルノー・ルービック先生も来日しました。僕はオリジナルの技で挑みましたが、敵いませんでした。同じ81年に開催された第2回大会にもさらに技をチューンアップさせて挑みましたが、準決勝で優勝者に敗れて、4位止まりでした。当時はまだ、自分の技と技との戦いで、コミュニケーションツールもなく、他人に教えることもなかったんです。82年には第1回世界大会が開催され、世界的な盛り上がりとなるのですが、日本ではみんなルービックキューブから離れていきました。が、僕は、次は行くぞ!と密かに練習していたのですが……。

――その後、世界的なブームも去り、国内大会も世界大会も開催されないまま、秋元少年は大学受験を迎える。

秋元:物事を深く考えるには役立ちましたかね。大学には合格しましたが、ルービックキューブは挨拶代わりに披露する程度になっていました。

――進学したのは京都大学医学部である。秋元氏はそれ以後、ルービックキューブから少し距離を置いた。

秋元:2000年に研究留学としてアメリカに渡ったのですが、そこでルービックキューブのコミュニティを見つけました。97年、ルービックキューブに興味を持ったアメリカの高校生がブログを始めたのがきっかけで、世界中から解法の投稿が始まったんです。当時は僕も30秒くらいにまで腕が落ちていたのですが、これを機に打ち込みました。病院と比べると留学生はまだ時間がありましたからね。それで世界大会復活の気運が盛り上がってきたんです。

――01年、ニューヨークで世界大会開催の企画が持ち上がる。秋元氏はちょうど米国にいる。チャンスだ。

秋元:9・11テロで中止になってしまいました。しかし、03年、カナダのトロントでの開催が決まりました。

――秋元氏は03年の世界大会で、1面が16分割の4×4×4部門、25分割の5×5×5部門でそれぞれ優勝した。

秋元:05年はフロリダのディズニーワールドで開催され、2×2×2で優勝しました。その後は日本ルービックキューブ協会の立ち上げなど裏方に回りました。本業である病院勤務も忙しくなって、トップレベルを維持するための練習はできなくなりましたね。

――現在、大阪赤十字病院の眼科主任部長を務める秋元先生は言う。

秋元:でも、スピードキュービングと手術は良く似ているんですね。どちらも目標とするゴールは決まっていて、そこまでにはいくつかのステップがあります。各ステップには色々なバリエーションがあって、臨機応変に適切な手技を選択して実行します。選択が適切でなければ、後でリカバリーが発生します。バリエーションをどれだけ理解しているが懐の深さになります。もちろん手術でスピードを競うわけではありませんが、スピードキュービングでの思考は仕事にも役立っています。

――子供に勧める親がいるのも分かる。

秋元:将来の夢はオリンピック種目になってくれることです。Eスポーツだってあるんですから。

 発売から40年も経つと、奥が深くなるものである。

週刊新潮WEB取材班

2020年8月21日掲載

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