戦争が生んだ「浮浪児」は3万5000人 当事者が語る路上生活【石井光太】

国内 社会

  • ブックマーク

Advertisement

 終戦75年の夏を、日本はコロナ禍の只中で迎えようとしている。

 昭和20年8月15日、日本人は今と同様に先行きの見えない社会に対する不安にさいなまれていた。戦争が終わったからといって、すべての人々が平和の訪れに心を躍らせていたわけではない。一部の人にとっては、戦後の数年間、いや数十年間は、戦禍を生きるよりつらいことだった。

 ***

 その一例が「浮浪児」と呼ばれた戦災孤児たちだ。戦争で親や家を失い、路上でホームスとして生きた子供たちのことである。

 かつて私は『浮浪児1945- ―戦争が生んだ子供たち―』(新潮文庫)で、上野駅の地下道や闇市で戦後を生き抜いた子供たちの証言を集め、ルポルタージュとして刊行した。

 そのうちの一人の元浮浪児の言葉である。

「戦争によって家族を失った子供にとっては、終戦からが地獄の日々のはじまりだったんだ。大人は『自由になった』と喜んでいたけど、一人じゃ生きられない子供にしてみれば『国に捨てられた』が本音だった。それから長い間、俺は野良犬以下の暮らしをすることになったんだ」

 野良犬以下の暮らしとは、何だったのか。元浮浪児たちの証言から明らかにしたい。

 浮浪児と呼ばれた子供たちは、終戦から3年後に出された推計によれば、全国に約3万5000人(「朝日年鑑」)いたとされている。年齢は3、4歳から13、14歳くらいまで。もっとも多かったのが小学生くらいの年齢だ。

 子供たちが家を失った経緯は、昭和20年に浮浪児になった子と、昭和21年以降になった子とで大きく異なる。

 前者は、終戦の年に日本各地で受けた空爆によって家族と死に別れた子供たちだ。家に爆弾が落ちて親が亡くなったり、火の海の中を逃げている最中に生き別れたり。あるいは、疎開から帰ってきたら家族が全滅していたと判明し、一人で路上暮らしをはじめた場合だ。

 後者は、親による虐待の被害児だ。父親は戦場から帰還したものの、戦闘のトラウマで心が荒み家庭内暴力をくり返したり、アルコールやドラッグに溺れたりした。それが原因で、ないしは貧困につながり、家出をした子供たちが浮浪児になったのだ。

 彼らがもっとも多く集まったのが、上野駅の地下道だ。主に東京大空襲で家を失った人々が数千人単位で足の踏み場もないほど暮らしており、その1~2割が子供たちだった。みんな何年も体を洗えず、アカにまみれて、男の子か女の子かも見極めがつかないほどだった。

 上野駅の前には闇市(現在のアメ横のあたり)が広がっていて、日用雑貨から食べ物、それに違法な薬物までもが白昼堂々と売り買いされていた。浮浪児たちはそこでおこぼれに預かったり、露店の手伝い、靴みがき、新聞売りといった仕事をして食いつないでいた。

 子供たちの話を聞くと、上野公園のノラ猫や不忍池のザリガニを食べたという話をよく聞く一方で、口をそろえるのが「残飯シチュー」が最高においしかったということだ。

 浮浪児の一人は言う。

「残飯シチューっていうのは、米軍の残飯なんだよ。食堂のゴミ箱の中身を袋に入れてもってきて、大きなナベでそのままごった煮にする。時にはゴキブリや避妊具がまじっていることもあったけど、米兵の好物のビフテキの入ったそれは、ほっぺたが落ちるほどうまかった」

 路上で餓死寸前の時に食べた残飯の味が、生涯食べた中で一番美味だったという者も少なくない。

 ただ、上野にはライバルも多い。仕事を得られるかどうかは競争であり、現金を持ち歩いていれば年長の子たちに奪われる。そのため、浮浪児の中でも幼い子たちは「ドサ回り」と言って、汽車に無賃乗車して地方を転々とした。

 夏は涼しい東北、冬は暖かい九州の農村や漁村を回り、施しを受けて生きていくのだ。村の大人たちの中には、戦争で主人や跡継ぎを失った人も少なくなかった。そんな人たちの中には、浮浪児を養子として引き取る者もいた。

 ある元浮浪児は語る。

「ドサ回りのたどり着く先は二つに一つだった。いい大人に拾われて養子になるか、人買いに捕まって売り飛ばされて奴隷みたいに働かされるかだ。疲れ果てて谷や海に飛び込んで自殺しちゃう子もいたよ」

 だが、こうした子供たちは「自殺」ではなく、「戦災死」とされた。国は浮浪児の生存を確認していなかったので、人目につかないところで命を断てば、戦時中に死んで行方不明になったものとして処理されていたのだ。

 終戦から2年、3年と経つにつれ、浮浪児と呼ばれる子供は、戦災孤児に家出少年たちが加わって、その数は膨れ上がっていった。冬になると上野駅の地下道では、毎日何人もの人間が寒さや飢えで命を落とし、生き残った者もスリ、恐喝、強盗などをしなければならなくなった。

 浮浪児は言う。

「子供たちの一部が生きていくために悪さをしはじめた。それで街の人たちはみんな俺たちを敵視するようになった。『浮浪児は悪党だ』と見なして追い払い、連合軍の兵士は万引きしただけで銃で撃ってきた。警察だって俺たちを捕まえて食べ物のない施設に放り込むんだ。施設にいたって餓死するだけだから、みんな逃げたけどな」

 そんな中でも、浮浪児たちに救いの手を差し伸べた人々もいた。

前へ 1 2 次へ

[1/2ページ]

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。